Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

はじめに

  • 数時間かけて書いていたブログ記事を丸ごとボツにしたために、もう色々と無理になってしまった。
  • ので、適当に書いてMarkdown記法の練習をする。

本文

  • アイスブレイクに使われる質問のひとつに「犬派か、猫派か」というのがあると思う。天気の話題の次くらいにメジャーな質問で、しかし内容量はずっと上だ。
  • 犬派か、猫派か。一見どうでも良いように思えるが、しかし回答次第ではある種の同盟を築くことができる。「(わたしと同じ)犬好きであれば、このひとは悪い奴ではないだろう」と判断できるし、そうなれば柔らかな雰囲気が訪れることだろう。少なくとも、そう期待しているひとは多いはずだ。

    • 相手が猫派でも同じことが言える。
    • 「きのこvsたけのこ」ではこうはいかない。そこでは戦争がマナーとなっている。
  • 天気の話題だとこうはいかない。誰が見たってその日の天気は同じなわけだし、その事実を共有したところで、関係性が更新されるわけではない。

  • たとえば、

    • 「今日は晴れていますね」
    • 「そうですね」
    • 「こうやって陽の高い日は、決まって十九歳の夏を思い出すんです……」
  • おっと、どうやらそうでもないみたいだぞ。

マトリョーシカ.1

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  • 「十九歳というのは、未成年最後の一年なわけです」と彼は語り出した。
    • 初めて出会う青年。おそらく日本人とどこかの国のハーフ。そうでなければ、某国のエージェント。いずれにせよ、聴きやすい日本語だった。正直なところ、はじめ、わたしは彼が日本語を喋ったとは思えず、ドイツに滞在して一年ほど経っていたところでもあったので、周りの言葉を無意識のうちに母語に翻訳していたか、もしくは幻聴を聞いたのかと思った。だいたい、わたしが日本人だとどうしてわかったのだ?
    • しかしわたしはそう問わない。「よくわかりましたね、わたしが日本人だって」も言わない。そもそも彼はこちらを見もしないのだ。空と話している風にも見える。

    • 彼が言うほど陽が高いようにわたしには思われなかった。なにしろ、わたし達がいたのはベルリン-クラクフ間のどこかの駅で、風の強さによっては秋にも冬にもなる――ひとくちで言えば、思春期みたいな季節だった。

  • 「実は明日、ぼくの誕生日なんです」と彼は続ける。じっと彼の横顔を見つめているわたしは失礼だろうか。それほどきれいな鷲鼻を見たのは、この一年間を通じても、これが初めてだった。「二十歳になります」
  • 「大人になるのは嫌なの?」とわたしは尋ねた。
  • 「どうでしょう。はじめてなので」と彼は答える。
  • 「そう悪いことでもないよ」とわたしは言った。得したことといえば、白昼堂々と酒を飲み、煙草に火をつけ、キオスクで成年向け雑誌を買えるようになったことくらいだ(わたしは男性向けを買う。そっちの方が好みだ)。
  • では逆に「損をした」と感じることの方が多いかというと、正直なところそうでもなかった。
    • 「あれをしろ、これをしろ」とせっつかれること自体は、それまでと同じだ。歳相応の振る舞いというのがあって、実際に上手くこなしていてるかどうかに関わらず、世の中というのはリマインドを忘れない。通知の鳴り止まぬ社会にわたし達は生きている。指示の内容が変わっただけで、形は変わらない。そして、そのことを「良くなった」と言えるほど、わたしは楽天家にもなりきれなかった。
  • しかし、わたしの隣に腰掛けているのは、明日成年になろうとしている未成年だったし、そんな彼に呪いをかけるほど、わたしは生粋の悪人でもない。彼が何者かは知れず、ほぼ確実にこの場限りの相手に違いなかったが、その予感に等しく彼は傷つきやすそうに見えたし、芯の方では凍えているように見えた。
  • 「僕は怖いのかもしれません」
  • 「怖い? 何が?」
  • 「明日、僕は今までと違う自分になってしまうような気がします。そうじゃなくて、このまま続いていくのだとしても、怖さの質は変わらないような気がするんです」
  • わたしは煙草に火をつけた。胸ポケットには、ラッキーストライク1が残っていた。
  • 「二十歳になるまで、僕はほとんど何もしてこなかったように思うんです。けどこうして一線を越えようとしている――こどもとおとなを分けてる線です――そうやって、何もしないままに線を渡って言って、あっという間に死ぬんだと思うと……

ここまで書いて、僕はこの話をどこかで書いたことがあると気が付いた。


本文.2

  • 犬派であるか、猫派であること。
  • これは紅白幕の紅と白のように、以下の条件を満たしている。

    • 相互に違う色である
      • ないしは極限として設定可能である(他者による了解が十分期待できるものである)
    • 交互に配置ができる  
  • 注目したいポイントは、紅と白の順番が逆でも問題はないという点だ。赤-白-赤、と数えても、白-赤-白、と数えてもおそらく等しい価値を持つ。

  • 犬派-猫派というのは、 上の例のように、試しに置いてみたくらいのまものであって、排他的な性質を持たない。
  • きのこ-たけのこ問題は、慣例に基づき闘争を必要とする。

おわりに

「Aか、Aでないか」というのは意味としてわかるんだけど、「Aか、Bか」という問いはわかりにくいって感じることがあって、それってなんでだろう、と考えようとしたことになりますね、今回の記事では。

二者択一の問題「ビーフorチキン?」と異なって、「理念として設定された両極端」、「その濃淡」、「ではなぜそれらを理念として設定したのか(意図)」みたいなものはよく考えます。

なんか、「犬派or猫派?」みたいな適当さで答えても良さそうなシチュエーションで2、「ビーフorチキン」を提示されるケースってあるじゃないですか。

挙句、たとえば「ビーフ」を選んだとして、「ビーフを選択したからには、以下のことをしてもらう」と脅迫してきたりする。そこまでコミットするつもりはない、と言っても遅かったり。

こういう現象って不思議だな、って思うんですよね。

去年の今頃を思い出してみますと、かなり僕はこれでした。問題は「ビーフ」を選びはしたものの、供されたのは同音異義物質(毒性)だった、みたいなわけだったんですけど。


  1. クリスマスマーケットの晩、同じテーブルについたベルギー人の男が言うには、これは"アメリカのプロパガンダ"らしい。「お前に愛国心があるなら、違うものを吸え」と彼は言っていた。愛国心――そんな言葉を聞いたのは、それが初めてだった。自分の国にいるとき、わたしはそのことについて考えてこなかったのだ。でも、結局のところ、わたしは同じ煙草を吸い続けていた。

  2. つまり、誰から見てもだいたい等しい価値を持つケース。犬派の人間は猫派の人間を滅ぼさないし、逆も然り。これに対して、ビーフorチキンでは、一方を選んだ場合、もう一方の機会は失われる。