Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

[メモ]マイナー文学のマイナー性について

ドゥルーズのタームにマイナー性というのがあって、記憶にある限りではカフカをはじめとした「異国語で書かれた小説」みたいなものがテーマになりがちなんだけど、これについて考えてみる。なんでドゥルーズはこれをテーマにしたのか。

ジル・ドゥルーズはフランスの哲学者。精神分析家のフェリックス・ガタリと共に、『アンチ・オイディプス』とか、『千のプラトー』という大変読み応えのある本を書いている。共通するのは、フロイトに大きく拠るエディプス・コンプレックスと資本主義を絡めたところを批判する、という姿勢で、後の世代に与えた影響は大きく、最近まで存命だった人物だ。

ドゥルーズ自身は、ベルクソンニーチェライプニッツなどの哲学・思想を愛を持って読み解いていったひとで、その読解にかける情熱は凄まじく、彼らの文章をほとんど知らなくてもその熱量にこっちもクラクラできる。
ベンヤミンもそうなんだけど、彼らは哲学者なのか? という疑問を拭いきれない。哲学として読み解くことは可能だろうけど、そういう読解はドグマティックにすぎないかとも思う。
個人的には、文学だと感じてもいるが、たとえば「フランス文学」のコーナーに置かれでもしたら、探しにくいので「哲学」のコーナーにあるままで助かる。
第一、哲学と文学の境界線とは何か、という話になっていきそうだし、これはこれで面倒だ。そもそも、いかなる作品も、著者の自覚・無自覚は別に、その裏には思想が流れているだろうし、その範囲の内に作品の価値を限定することほど寂しいこともない。作品の中身は読み手によって増殖させられていくものだと考える。

ドゥルーズのタームで重要なものの1つに「差異」というのがあって、これはニーチェ永劫回帰とかとシナジーのあるものなんだけど、これと上に挙げた「マイナー性」というのがどう関わるのかという点について、閃きがあったのでメモを書いている。

裏を取っていないので、印象の話になるんだけど、「異国で異国語で書く」ということから生じる二重状態を差異と呼ぶのであれば、それは確かにマイナー性で、でもこれには個人差があるよね、という点から、フッサールなどの間主観性の問題に線を伸ばせないか、というのが本日のインサイト

で、更に言えば、昨今激アツのグレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスー周りの、オブジェクト志向論(メイヤスーは違うんだっけかな)との兼ね合いで、何かまとまった見解が得られるんじゃないか、と見当をつけている。

僕のメインテーマとしては、ドゥルーズベンヤミンの接続だったりするので、ベンヤミンをどう読んでいくか、という点は課題。あの人の著作は、構成自体が、非常にリゾーム的で、分裂的なところもあるので、シナジーは間違いなくある。ただ、彼は異界体験を叙述しているようにも思われるので、この点で微妙にテーマとずれてくる。

上の直観を整理する。

  • AとBを比べて、そこに違いがありますね、という差異の認定方法は、AとBの外側からの視点である。
  • これに対して、マイナー性の実践としての「異国で異国語で書く」というような状態では、AでありBである(AでもBでもない)みたいな一見すると矛盾してる状態にある点で、差異そのものである。

というような視点から、

  • 「私はきっと何者でもない」という絶望的な状況とかを語り得ないか。
  • はたして、そもそもそれは絶望的状況か(ひとによるかもしれず、現代に広く見られる病を語れるのでは)

という方向性が得られ、
スタニスワフ・レム の『ソラリスの陽のもとに』の惑星ソラリスの視点でものを見られないか、それが現代版の主体なるものの解釈になるのでは、という路線も得られる。

以上、メモなので走り書き。のちにちゃんとした文章として整形できると望ましい。というか、この作業さえ乗り越えられれば、ちょっとは実生活も変わってくるんだよなぁ。