ゴールデンウィーク(1)
回想
去年の今頃は、春が桜の咲く季節だなんて気づきもしなかった。
同じようにゴールデンウィークだったにも関わらず、どこかに出かけたという記憶がない。
それとも、実際にはどこかに行きはしたが、この一年間があまりに悲惨な歳月だったこともあって、忘れているだけかもしれない。
いずれにせよ、今年も春が来た。
小景
北海道では、今くらいの時期にようやく桜が咲く。
少し自転車を漕げば、あちらこちらに花盛りの桜を見つけることができる。
薄桃色の小さな花がところ狭しと広がっている様はいじらしい。
今までの人生の中で、この花を意識したことがあるのはこれで二度目だ。
日本の花としても知られているにも関わらず、知識だけはあって、感性が働くことはなかったのは、考えてみるに意外というか、自分の至らなさに当たる。
札幌市内都心部のとある商業施設には、ちょっとした公園がある。
そこには桜の木が並んでおり、新婚夫婦が写真撮影をしていたり、カップルがベンチで話していたりする。
PM2.5で烟る空の下、季節に浸っているわけだが、ちょっと羨ましくなる部分もある。
今僕は無職の身で、社会に対してサスペンドしていることもあるのだろう。
人恋しくなる部分もあって、ああいう風に季節の花さながら、誰かと寄り添って生きることを考えもするのだ。
なにしろ精神的にも社会的にも不安定な身であり、明日も知れぬ身分である。
「身を固める」とか、自分の土地を持つということが、ちょっとした課題として、ここ二日間ぼくの脳を占拠していた。
結局のところ、ぼくは自由であることを選んでしまいがちで、責任感というのを拒絶するきらいがある。
これは、風の噂に聞くところ、同窓生たちが次々と結婚していくのに並べれば、反社会勢力的とのそしりを受けないとも限らない。
ぼくだって幸せにはなりたいのだが、なかなか「いまがそのとき」という確信が持てない。
加えて、「まだ死に場所を決めるには時期早々」と冒険少年な自分が喚きもするので尚困る(幼い頃にジュール・ヴェルヌを与えすぎない方が良いのかも知れない)。
そんなこんなで、仕方がないから、桜の写真の一枚も取らず、ただその下を自転車でかっ飛ばして過ぎるのである。