Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

またしても筆を折った

カクヨムで小説を書いていたが、またしても筆を折った。

 

以下、自分の近況ノートより抜粋

作品に行き詰まったとかそういうことではありません。
このまま行けば、絶対面白いものになるという自信があります。
ちゃんと計画もあるし、執筆態度が身についてきたような気がします。

少なくとも、自分は満足できるものになっただろうと思います。
似た趣向のひとにも楽しんでもらえたかもしれません。

しかしながら、生活が困難になって参りました。

小説を書くことは、私にとって大事な部分です。
作品のことだけを考えて生きてきたような気がするし、そのために普通の人生を投げ打って、金とか時間を構想につぎ込んできました。

こういう風に何度も筆を置いては執り、折っては直してやってきましたし、ようやく多くのひとのためでなく、自分と自分に似たひとが楽しめるものを作ろうと思えるようになりました。リラックスして、かつ集中して書けるようになってきたのです。

ですが、これが仕事になるとは思えませんし、趣味としても続けられるような身分ではありません。いえ、本来趣味の継続に身分など関係ない、自由気ままにやれば良いともわかってはいるのですが、自分自身に限ってはそれを認められなくなりました。毎度のことですが。

あるいは、それでも続けていく先に、チャンスが開けているのかもしれません。そうだったらどんなに良いか、とも思います。次のツルハシの一振りで、トンネルが開けたりするのかもしれません。

ようやく「これだけは完成させよう」と思える作品を書き始めた矢先にこんなことを思いたくもないんですが、(潜在的・顕在的問わず)読者のみならずかつての自分にすら申し訳なくなり、信頼を損なっているとも感じますが、ダメになって参りました。

以上を記録します。

もう色々とダメだからだ。
  
現実で一定以上のストレスがかかると、それまで作ってきたものを大部分消去しにかかってしまう。
自傷行為的だし、ある意味で死を選んでいる。
自己分析によると、自分自身の存在に耐えきれなくなったため、軽くなろうとしての行為。
  
なにより損なっているのは、信頼だ。 
上にも書いてあるんだけど、自分への信頼、読者あるいはそうなったかもしれないひと(つまり可能性)への裏切り、信用の喪失……つまり今後どの面下げて自信を持って行けばいいのか、他者と関係を構築していけば良いのか、担保として何を提示できるのか。  
  
自己紹介すらできなくなる。
なぜなら、自分には自信を持って成し遂げられることも、偶然であれ完成させたポートフォリオ的なものもないからだ。
わからん。見失っているだけかもしれない。落ち込むと目に見えるのは欠陥ばかりになる。
  
 自分は何者かと問うて、何も無いどころか害を為す、と答えてしまったら病院に行った方が良い。なぜなら健康ではないので。とても傷ついているし、間違いなくメディカル・アテンションが必要だろうから。
でも、僕の場合、もうすでにそれをやってしまった。
  
二度目はない。二度目はないんだ。
甘ったれは生きていけない、と言われつつ甘やかされて生きてきたので、最初からこうやって苦しむように作られてきたところがある。
  
ちょっとずつ前進してきたし、もうダメだと思ったところからも復活したとも思っていた。でも、人間としての基準線はとっくに僕を追い越しているわけだし、成長したところで、這い上がったところで、及第点には至らない。
  
これは他者による承認とか、関係性の網に引っかかっていること、実存の水面から沈まないこと(あるいは沈んでも結局は浮上すること)以前の問題で、一個体として存在に耐えられるか、という小問。
  
やりたいこと、将来の目標、ライフワーク……といった自分の軸になるものを持つには、まず存在に耐えうる強度がなければならない。これは漲る自信とかプライドとか、社会的義務とか色々なもので構成されうる。
  
つまりなんだって良いけど、ひとつのことに集中できるか(常に自己を解体するように働く諸力を無視できるか)という問題なんだけど、僕にはまずこれがない。かつてはあったのかもしれないが、今は失われている。維持できない。
  
僕の自分の内側には引力がない。
  
上にあげた、やりたいこと、将来の目標、ライフワークなどといったもの、と、存在に耐えうる強度というのは、一度スタートしてしまえば、円環状で、相互に備給し続けるものなのだが、この円環が壊れてしまえば、全てはおじゃんだ。
疑う暇もなく、高速で炉を燃やし続けなければならない。エネルギーは止まってはいけない。
  
継続は力なり、という言葉の真意はここにある。
  
でも僕の夢とか希望は止まりがちだ。今年の初めから更に息切れしやすくなった。
ワーホリに行きたい、研究の道に進みたい、小説を書きたい……色々ある。色々あるように見えて、でもこれらは全て繋がっている。そういう風に設計してきた。そのはずだ、ということは覚えている。
  
でも、それが軸になっていた頃の自分はもう死んでしまった。
  
ここにあるのは、もう廃墟になった実験場だ。亡霊だけが住み着く、陰気で、日が差さず、余計に脆くなってしまったもう価値のない場所だ。
  
何をやってもどうせダメなのだろう、と思ってしまう。
うまくいかないだけなら良い。その不幸が自分の中だけで完結しているならまだしも、多分僕の場合、害を為すんだと思う。
直接誰かに攻撃をするということではなく、自己を膨らむ負債と感じ出している。またしても、そういう考え方になっている。エネルギーが切れたからだ。
  
夢想家から夢と希望を奪い去るとこうなる。
だからといって、夢想家に夢と希望を与え続けよ、と僕は言いたいわけではない。知らない、他の夢想家のことなんて知ったことじゃない。救って欲しいわけでも、糾弾したいわけでもない。これといって報告したいわけでもないし……ではなぜ文章を書いているのかと自問してみれば、それは日が昇ったり暮れたりするようなものだ、との答えを得る。波が打ったり返ったりするようなものだ。
  
そういう寄せては返すものは担保にならないだろう。信頼できるものでもないだろう。砂上の楼閣にひとは住めないのだから。