Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

語学が必要とされる平面にいない

外国に存在することはできるんだけど、実存しようとするとうまくいかない。

もう何年も前の話になるが、ドイツに留学していたときには、周辺各国に旅行もした。
けれども、どんな街に行ったところで、浮いている感じが拭えなかった。地に足がついていない、というか、噛み合わない感じ。
その感覚は、今にして思えば当然で、要するに僕はその街にとって異物だったのだ。初めて見るその街を母語のレンズ越しに見ていた。

そもそも留学先をドイツに選んだのは、英語が使えると聞いていたからだった。
でも、いざ向こうに行ってみると、それは甘い考えだった。
確かに使えはするが、使えば使うほど、自分が囲まれるような感覚があった。 街と噛み合わなくなり、浮遊しはじめた。

これを解決するためには、ドイツ語を勉強する必要があった。
成果はあった。
ベルリンの街の空気を少しずつ吸い込めるようになっていった。

外国語を学習するメリットについては、主観的なものしか見出せないでいる。
たとえば、僕は今フランス語を中心に学習しているけれど、これは「いつかフランスに住みたい」という夢があるからだ。別に住むだけなら、フランス語ができなくたってできる。誰とも会話せずに生きていくことは、金さえあれば不可能じゃない。日本に住んでいる今だって、週末は誰とも会わず、出かけても近所のスーパーくらいなもので、飲み食いさえできれば生きてはいける。

じゃあどうしてフランス語をやるのかというと、それは「心地よさ」のためであり、より誠実に言うなら「孤独感を紛らわせるため」だ。「自分はこの街の人間ではない」という感覚は、どこの国、どこの街に住んでいたって付き纏うだろう。そもそも「その街の人間である」とは何か――わかり易いのは、その街で働き、その街に税金を納めることだが、この考え方は僕には馴染まない。在住年数と納めた税金の多さ(あるいはその代理表現としての収入)を2つの軸とする、この資本主義的な平面は僕の実存したい平面ではない。 とはいえ、これは市民権なるものを獲得するには、有効な手法だ。僕はフランス語で同じことをしたい。

ここまで考えてくると、1つの疑問が浮かぶ。
たとえフランス語で働き、フランス語で市民権なるものを獲得できたとして、それで僕は「この街の人間である」と言うことができるのだろうか。どこに住むのかは知らないが、けれども語学をやることで、他の国の知らない街の住人にならんとすることはできる。語学は、自分を作ることである。