Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

フランス語やっててよかった

フランス語を勉強していてマジでよかった、と思うタイミングにぶち当たった。

大学時代からの愛読書『千のプラトー』の原書が読める。もちろん、わからない単語はたくさんあるし、「そういうフランス語の書き方ってあるんだ…?」みたいなつまづきもある。でもそこは邦訳の記憶と辞書で乗り越えることにして、何よりもまず、「以前に比べて未知の言語ではなくなっている」ことに感動し、法悦に浸ることに専念する。

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

原書で読めることの嬉しさ、もっと頑張ればもっと読めるようになるかもしれない、という希望――これはすごい。それまで日本語でしか読めなかったわけだが、まあその時にもこの本の凄さに感動していたわけだけど、日本語の枠組みを外したときに、むき出しになる原語での空間というのがほんとにすごい。母語も十分理解できているとは思えないし、というかむしろ母語であるが故に理解が難しくなってくる部分もあると思うし、あるいはあまりにこの肉体に、つまりは個人史的な身体に、組み込まれているので(というか、母語によってこの個人史的な身体とか認識、偏見、癖は記述されてきている、といった方が適切か)、こう日本語的な癖で邦訳を読んでしまったりするんだけど、そしてそういう読み方に反抗するものが翻訳文には存在し、その弾力のようなものを楽しんでいるわけだが、原語で読もうとするということは、自分の体を捨てて魂だけで直にぶち当たるようなところもあるので、全裸で海に飛び込むのはこんな感じなのかな、って思うし、最高だな。

僕は視力が悪く、乱視と近視を併発している。近視自体はそれほど強くないのだが、乱視と合わさると「本来は見えるはずのものが、見えない」という事態が起こる。そこにあることはわかる。しかし、像が1つに結ばれない。四方八方にブレて見える――だがまあさすがに、このことにも慣れた。

語学学習というのは、解像度を上げていく手段に喩えられる。
僕の視力の場合は、眼鏡をかけてどうにか補正するわけだけど、あれはどうにも不便だ。長く掛けていると疲れるし、重たいし、汚れる。はっきりいって邪魔だ。
ところが、語学の場合は、こういうデメリットがほとんどない。どんどん見えるものが鮮明になっていくし、できる語学が増えれば増えるほど、ある対象についての見方にバリエーションが出てくる。たとえば、りんご1つを取っても、語学が変わればイメージも変わりうるので、これはお得だ。

課題があるとすれば、そしてそれは現実のものでもあるのだが、視力が上がったところで、見えるはずのものがちゃんと見えるようになったところで、それはようやくスタートラインだということだ。多くのひとに見えないものが見えたとして、その価値をうまく伝えることができなければ、たとえば資本主義的な平面の上に転写できなければ、生活は改善しない。しないどころか、やっぱり資本主義的な平面状にアカウントを登記しておくこと、それを運営していくことをやっとかないと、肝心要の精神が破壊されてしまう。