Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

なんでもいいから毎日書こう

ブログをやるに当たって、収益化についてもちょっと調べたんだけど、必要なのはコンテンツとしての質と量だという部分には頷きがある。ターゲットとかセグメントとか、5W1Hとか。誰に向けて、何を発信するか――というのは、僕が普段の生活で蔑ろにしているテーマでもあるので、このブログをはじめるのを期に補っていこう、そう考えた時代もある。

何より、「こういう人を対象に、こういうものを書こう」という発想は、それはそれで価値のあるもので、ただ漫然と継続していくよりは、道が決まっていた方がやりやすいだろう。毎日職場に向かうのと同じように、それが積もり積もって、月の生活費になり、あるいは、働くことに対するトラウマを克服することにも繋がる。自分は社会不適合者なのではないか――という疑いをしばしの間忘れ、そうすることで、心の内圧をコントロールし、週末や仕事から帰ったあとに、自分のやりたいことに没頭することができれば、しめたものだと僕は思う。

こういう自分の好きなことをやろうとするときに、大事になってくる問いがある。「それは自分の求めるところか」「自分を喜ばせることができるものか」というものだ。この問いに対する答えが、自分にとって十分説得力を持たない場合、僕は継続に失敗することになる。

ここで、最初に挙げた、ターゲットの設定についての話にたちもどる。そこで設定した顧客は、果たしてどれほど自分に近いだろうか。もし、ここで設定した顧客像が、十分自分に近い者だったなら、結構やりやすいことになると思う。しかし、現実にはこれがかなり難しい。僕は自分のことがよくわからないし、了解可能な顧客像として提示できるほど、強い需要も持ち合わせていない。微弱な需要はあるのだが、単一の像として結ばれない。ここでも僕は乱視気味なわけである。

自分の好きなものを書こうとするなら、自己との対話をするだけで良いから、気が楽という向きもある。なにより、「今世の中ではこういうものが求められているんです」を極限とする考え方をしなくて良い。これは僕にとって、すごくストレスになる考え方だ。というのも、「自分も世の中に含まれている」という事態がある一方で、自己を特権化し俯瞰しようとすると、身が引き裂かれそうな気持ちになる。ただ、可能ならばこういう考え方にも慣れていくべきとは感じるし、心の中では舌を出しつつ、そう言い切る面の皮の厚さも身につけるべきなんだろうなと思う。あくまでもこれは義務感からではなく、環境に適応するためには、という意味だ。生きることは義務ではないし、義務にしてはならない。それほど息苦しいこともなかろうから。

「幸運なことに」と僕は言いたい。「僕は自分の好きなものを書こうとして、模索し続けてきましたが、それに共感してくれるひともいるみたいです」と言うことができれば、それは幸せなことだろうと思う。そのとき、僕はようやく素直に連帯感を覚えるだろうし、誰に対しても嘘をつかず生きていくことができる。仮面をつけた生活スタイルというのは、社交界では必須なんだけど、いかんせん、重たすぎるのだ。再現ない義務と恭順が求められることになる。