Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

僕は生の翻訳に失敗し、実家に帰ることを恐れる。

ぴょんぴょーん! 織倉未然だよっ こんばんわ〜!

10連休です。11だったかもしれない。時間は無為に過ぎていく。目標ないしはタスクが必要だ。

年末年始。これはまずい。実家に帰らなければならないのか? ならないのだろうな。なぜなら帰る場所があるのだから……?

それは本当に"帰る"場所なんだろうか、という疑問がつきまとう。

僕に帰る権利があるのだろうか。

僕は今一応、フルタイムで働いていて、ぎりぎり生存できる程度の賃金を手にしている。勤労に対するアレルギーは徐々に緩和され、どうやら僕にも働くことができるらしいと思えるようになってきている。「こうあるべきだ」という主張が先行するのではなく、ただ生きるために金を返すために働き続け、心を無にして働き、そうするうちに自分と仕事の関係というか、接し方というか、態度のようなものを発見している。僕はどうやら仕事ができるらしい。これは他者相対的な能力について言っているのではなく、もっと基本的なもので、労働を生活に組み込んで日々を過ごすという基本的な(とされる)行動様式が僕にも可能らしいという……一度は棄てた市民権が再び視野に入りはじめている――そういうところに僕はいる。

できればこのまま、もっと様々なことを身につけて、自分の意思で仕事を選び、給与のベターな別の仕事に就きたい、選ばれるかは別にして、自分はそういう方向に歩き出せるのではないか……そんな希望が、冬の日差しのように弱々しく射し込んできているような状況だ。

以上、あくまで主観的な話。

一方、自分の今いる状況を、他者と絡めるとマズいことになる。抽象的な他者概念である「世間一般」とか「普通に考えて」は、ここには含まれない。それは噂話の領域に属するものであって、自分の心に映し出された影に過ぎない――というか、あまりに巨大すぎるか混沌としているか、あるいはその両方なので、僕には全容がつかめず、実態もわからないから、無視するに限るという処世術じみた反応の結果みたいなものだ。少なくとも、「社会の一員として」を自覚し行動の規範とし、あるいは語るためには、この人格はまだ未熟すぎる気がして、憚られる。ところが、家族は違う。親族は違う。それは他者だが明確に存在するのだ。しかも各々が、社会の尖った先として、表出している。彼らの背後には社会が広がっている。そういう比較無限大な勢力を前にして、僕は凛と立ちはだかることができるほど、立派な生き方はしていない。ぼくが日々どうにか積み上げてきたものは、そんな大勢力の前にはほとんど無価値なものではないか……? そう思う。不安になる。自分のしてきたことを信じてみても良い。「好きだからやっているんだ」。しかしそれは主観的な空間では意味を持つだろう。この一人暮らしの部屋では有効だろう。しかし、それは、社会に対峙できるほどの価値を持たないのだ。というか、僕の信じるこれらの価値は、社会に通じず終わる。ようするにこれは翻訳の問題なのだ。変換の問題なのだ。僕の信じるこれらの価値を、彼らの言語圏でも通じる言葉に翻訳できなければならない。できれば良い。一番有効なのは、おそらく、給与の額で示すことだ。故郷に錦を送るというのは、その意味で正しい戦略だ。目に見える形で表現すること。その一例として、数字。

この文章は、続くか訂正される。