Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

小説を書く才能について考える

小説を書く才能とは

自分には小説を書く才能がないのだ、と落ち込むことがある。才能のあるなしに関わらず、僕のような人間は書き続ける他ないのだが、どうしてもそう考えてしまう。しかも困ったことに、その才能とやらが一体何を示すのか、どんな役割を持ち、それが欠けているとどのような不利益が生じるのか、大抵の場合はほとんどわかっていないのだ。ともすれば、それは書かないこと、(何らかの事情から)書けないことの言い訳としてボワンと浮かび上がってくる考えなのかもしれない。

言い訳が必ずしも自己の正当化に成功するとは限らない。言い訳とはひとつの試みであり、それはコインを投げる一つの動作に過ぎない。言い訳が通れば自己を正当化できる。通らなければ、それは嘘になる。ここには4つの窓があって、その結果を自分で認められるか、あるいは他者が認められるか、その両方を満たすか、あるいはどちらも満たさないかだ。
 両面とも表のコインを投げるとき、すでに敗北は決まっている。そういう硬貨をユダの硬貨と呼ぶ。

 

言い訳が他者に認められたとして、その内容を自分が心の底から信じられない場合は、惨めなことになる。自分は嘘をついてしまった、と苦しむ羽目になる。そもそも実体のないものに脚色をしてその重さに苦しんでいるのだから、これは妄想と呼んでも差し支えない。いわばハリボテの十字架を背負っているようなもので、そんなプレイが楽しいかと言えば、是なわけがない。ところが否でもないから困る。これは当人にもマジで不可解なところなのだが、自分には書かなければならない物語があると思われるし、ハリボテの十字架だなんてことは百も承知なのだが、どうにも重さは現実味を増してくるように感ぜられるのだ。
 その上り坂の果てに張りつけられて、串刺しにされる予感は多いにある。そんなエンディングがあればまだマシかもしれない。神は信じていないが、誰かは見てくれていたのだ、ということになる。しかし一方で、この坂をずっと登り続ける羽目になるかもしれない。今のオッズはこちらが優勢だ。すでに辛いし、もう辞めたい。一大帝国に歯向かったこともないのに、こんなことになっている。意味がさっぱりわからない。なんで俺は小説なんか書いているんだ?

一度は「自分には才能があるかもしれない」と思ったからだ。どこで書いたかはわからないし、どの文章かも忘れてしまったが、ミューズが囁くのを聞いたからだ(どのミューズは知らない。分業化している)。そうではない、そんな神秘体験ではなく、実際に褒めてくれたひとがいたからだ。……などなど。
いずれにせよ、なにかしらの形で、契機はあったはずだ。応援する声もあったかもしれない。(あるいは気がついたらすでにはじまっていたのかもしれない。長く続けていると、記憶が曖昧になってくる。)

このモチベーションにもなり、心の支えともなるこれらの声は、自己とは独立して存在している部分に、美しさがあり悲しさがある。つまりそれらは、自分の内側に芽生えたことがなかったか、すでに消費されて空になってしまった部分に、外から染み渡るので、意味を成すのである。自分の外にあるから空が広く見えるのだ。

「才能がないから」という言葉を使って、僕が、書かない自己、書き続けることのできない自己の正当化に失敗するのは、ここに理由があると思う。それは僕の理屈ではないからだ。「才能がある」とは、初めから組み込まれた型ではないように思える。それは自分の外に典拠を求める考え方で、Aより大きくCより小さいから、BはAとCの間にあるだろう、というような見方なのかもしれない。要するにある平面では真っ当とされるが、別の平面ないし空間では、そうとも限らない一種の説明の仕方だ。

「いやぁ、それはどうでしょうね」

才能の話を自分の外に切り離すことで、ストレスは減る。しかしある種のコミュニケーション能力は損なわれる。生産能力に直接寄与しないものを排除して、別部署(才能評価部門ないしはマーケティング部門)に任せることで、創作活動に専念しやすくするという戦略は正しいと思う。
「君は自分の好きなように書け。自動思考気味でも構わん。とにかくはじめて、続けて、続けて、続けて、終わらせるんだ。あとの修正や装飾はこちらでやるから」
この方がずっとシンプルで良い。これはまだ賛成できる。
同様に、創作活動に必要なインプットや維持費を賄う部署も必要だ。一文字打ち始めるための準備をするにも時間がかかる。マジでかかるんだ。

ということで、小説を書く上での部門分けについて考えようと思う。そのうち

異世界から褒めにきてほしい