ゾンビランドサガを見た。
ゾンビランドサガを見終わった。すばらしかった。
見終わった翌日、働きながら「帰ったら続きを見ないとな」と思っていた。しかし、あの物語は放送を終えてしまったのだ。続きはない。
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「あんな風に輝きたい」
源さくらがアイアンフリルを見てそう思ったように、僕も彼女たちの物語を見てそう思った。
この点からすると、源さくらをはじめとするフランシュシュは、僕にとってちゃんとアイドルしている、と言える。僕は元気を与えてもらったし、自分でも輝きたいと――そう思っていたことを思い出した。
これは源さくらのドラマを知って、そこに感化されたからだ。「もってない」と腐っていた彼女が、共倒れしても良いと言ってくれる仲間たちと共に、かつて目指した方角に再び歩き出す――そういう眩しさに僕も憧れている。
その在り方はフィクションか?
死んだ場所も時代も異なる彼女たちが共有しているのは、自分たちはゾンビィだということだけだった。意識は目覚めたが、死んだ事実は覆らない。体は腐っても、彼女たちは生前と同様の在り方を継続していく。
しかし、源さくらだけは別だった。意識が戻ったとき、彼女は記憶喪失だった。他の子たちと違って、何も覚えていない。それなのにアイドルをやれと言われる。ぶっつけ本番のファーストライブで得た高揚に火をつけられて、彼女は仲間たちの支柱となりながら、アイドルグループ・フランシュシュとして進んでいく。
フィクションとしての幸運は、源さくらが自分を求めてくれる仲間に出会えたことにある。仲間の存在が、再び腐り始めた源さくらを再び輝かせたのだ。
とはいえ、この「幸運」はあくまでもこれを書いている人間の当てた表現だ。彼女たちは死んでいるのだ。そのことをして「幸運」と呼ぶのは不誠実ではないか? では逆に「不幸」と呼ぶべきかと問えば、これもまた不誠実な結果に終わる。当の本人は――あるいはこのドラマは――そのことを「幸運」とも「不幸」とも言わない。死そのものは1つの契機にすぎず、この作品の主眼は生死を問わず継続される本性の方にあるからだ。[^1]
君には死んでもなお継続したいことがあるか――そのことを考えずにはいられない。
幸運なことに(これは誠実だ)、僕にはそういうことがある。小説を書くとか、ドゥルーズやベンヤミンについて考えていくこととか、語学をするとか……。しかし僕には仲間がいないのでは、とそう思った。
輝くには仲間が必要か。しかし、この不安にも、この作品はすでに答えを与えてくれていたのだ。時代も場所も異なっていても、側にいてくれる者というのは存在する。[^2]
それは例えば、SNSの繋がりだったり、すでに故人となったアーティストや作家だったりする。大切なのは向いている方角を信じることであり、そちらに向かって歩き出すことなのだ。
まとめ
実にリビングデッドな物語だった。
あとこれは性癖の話なんですけれど、このアニメには引きこもってしまうヒロインが二人ほど出てくるので僕としては最高でしたね。好きなんだ、引きこもり系ヒロインがではなく、何かを契機に引きこもるヒロイン。
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