Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

ここ最近のデイズ

デイズとカタカナで書くことで何らかの意味を付与することができただろうか? こう問う時点で明らかだが、僕はそこに語感以上の求めてはいない。デイズ。Days。大豆に似ているかもしれない。白米に納豆を乗せることをやめてから久しい。そして今日、米びつから最後の一合が姿を消した。明日、目を覚ましたとき、僕らを迎えるのは主食の失われた世界だ。ひとはパンのみで生きるにはあらず、と昔の人は言ったが、このonly、前提を棄却するためには働かない。テッテレー織倉未然だよっ♪(⇦死にたさの音)

今週は仕事に対する意欲が薄かったので、かなり心がセーブされている。精神が液体という説を僕は信じているので、この確信の上に論を展開するならば、毎時流出し、謎のエネルギーへと化けていき、資本主義社会的システムに消費されていくそれらを、業務に対する不信心から節約することができている。具体的に言えば、目の前の仕事とか一方的な理屈に対して、ホスピタリティ全開で包容力を発揮することを止め、奥ゆかしく一歩引き、勝負から引くことを覚えはじめている。畢竟、僕にとってこの労働は対価を得るための儀礼にすぎないのだ、と。そりゃね、ホスピタリティを1割増しで発揮して給料が10%上がるなら、ちょっと考えないこともないけど、それにしたって結論は「ねーな」となってしまう。僕は指数的増大を愛する――こと労働に対する対価においては。

Onlyの話をしよう。厭離穢土のオンリではない。いや、それほど離れてもいないのかもしれない……僕は音の反響から得られるシンクロニシティの残影を愛する。

Onlyの射程

”Only”――素敵な言葉だ。ただ使い勝手と詩情の面では、これよりも”just”の方が好ましい。onlyが輝くのは、それが否定と共に使われるときだ。特に輝くのは、初めに挙げたように「パンのみに生きるにあらず」というような状況。onlyが否定されるときに顕現する、この開放系がたまらない。onlyが否定される際、その他に付け加えられるものがあり、しかしその添加物は指定されない。無論、上の言葉の無難な理解は、「信仰が必要だ」というようなものなんだろうけど、本来の機能を尊重するなら、それは可能性のひとつに過ぎない。なんだって選ぶことができる。試しにビールの一缶を加えてみよう。いたずらにタバコの一本も並べてみるか。いやいやもっと高尚に、愛とか勇気とか神託を置いてもいい。だが僕はマルボロの一本に火を灯すマッチの瞬きを数える。これで星座は完成した。

Only――この言葉が否定されるとき、可能性の宇宙が開く。notとonlyの衝突によって拓かれるこの系の中では、ひとはなんだって選ぶことができ、また選ばないこともできるわけだが、そういうグラデーションもしくはマーブルこそが、己を示すカラーになる。この情緒性。そしてこのカラーこそ、主体なるものに鮮烈たるêtreを与えるもの、つまり性癖というわけだ。

この開放系には、もう1つ語るに欠かせない美しさがある。それはこの世界がonlyの指定する1つの概念を頂点としてひっくり返っている、という点だ。上の言葉を再び例にとれば、僕らは机の上に置かれた一切れのパンから、notを用いて宇宙を創造することになる。全てのはじまりは、一切れのパンであった――このパンの残影は、たとえイマジナリィなものであったとしても、可能性世界のどこからでも観測することができる。もっとも最高の天体望遠鏡をもってしても、未だ宇宙のはじまりは撮影できていないのだけど。