『わたしリボルバー』という作品について(1)
作品の目次
- プロローグ
- 第1章 おはよう、わたし
- 第2章 殺人事件とプレイボール
- 第3章 ネガティブ半島・前編
- 第4章 ネガティブ半島・後編
- 第5章 殺人事件とロケット
- 第6章 おやすみ、わたし
あらすじ
主人公の「わたし」が目を覚ますと、目の前には自分そっくりの人間がいる。ここは宇宙船わたし号、乗客は全て「わたし」と同型のクローンである。次から次へとデプロイされる「わたし」達の集団生活の中で、彼女たちは自分たちの将来の夢を叶え、争い、そして死んでいく。
わたしリボルバーとは何か
「わたし」とは日本語の一人称代名詞。ただし、これが十全に機能するためには、前提としての他者が必要になる。他者とは何か。自分とは別の存在のことだ。しかしながら、この閉鎖空間(=宇宙船わたし号)の中では、全乗客が「わたし」そのものなのだから、この一人称が機能不全に陥る。これがやりたかった。
多重人格者だとか、特定の人間が分化する作品、というのは枚挙に暇がない。喜怒哀楽で分けてみたり、年齢で分けてみたりする。しかしこれだけはやりたくなかった。そういう風に色彩を分けてしまうと、十分対象化=他者として見ることができるようになってしまうおそれがあったからだ。
「宇宙船わたし号」――物語の舞台となっている宇宙船にそう名前がついているのは、この物語が主にその内部から語られるからだ。自分の住んでいる世界を外から見ることは難しい。何度か劇中で触れられる通り、この宇宙船は「わたし」にとっての頭蓋骨そのものであり、何人も登場する「わたし」は同一人物の頭の中で、次から次へと浮かんでは消えていく思考、思念、将来の夢、理想の代理表現である(代理というか、そのものとして機能させたかった)。
少女が大人になるとき――これは少年でもそうだし、究極的には性別に寄らない話なんだけど――というのは、何か一つを選択しなければならない。いくつも将来の夢はあったとして、実現していく身体はこれ一つきりだから、という問題がある。夢を複数叶える人間もいるだろうけど、基本的には実存していく身体ってこれしかないのだ。それは、リボルバーのシリンダーにたった一つ残された弾丸のようなものだよね、という仕組みを作りたかった。
もっと当時の時事問題的な話をするならば、これを執筆中の僕は就職活動を控えていた。仕事を選ばなければならない。でもどうやって? 仕事をする・しない、するとしたらこの仕事、あの仕事もいい、それとも別の……と考えてしまい、仕事らしい仕事でない仕事をしようとした時に、あれもしたい、これもしたい……と頭の中には無限の自己が生まれていた。それってかなり一般性ある事象なんじゃないかな、と思っていた。
そもそも、「わたし」という一人称は、他者との比較、差異があって初めて類推されるものであって(それは逆に他者についても言えて、「わたし」ではない、という方式で他者を類推せざるを得ない、みたいな話はフッサールとか辺りの間主観性の議論であったりもする)、そこに来ると前提としての「他者」が存在せず、「わたし」のみ機能しているってのは、「わたし」-「わたし」=0、の指示語としての有効性が働いていない状態ともいえる。
となれば、これは誰にとっての話でもありうると思っている。(※劇中で主人公の名前が明かされるとしても、それはこの理論に基づいて、何物も示さない名詞になっているのだ! と言いたかったのだが、この辺りはリーダビリティが低すぎたきらいもある)
次回予告
次回は、「しるし」とはなんだったのか、か「ネガティブ半島編の言い訳」のどちらかです。