Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

『涼宮ハルヒの憂鬱』を久しぶりに見た。

Netflixは昔熱狂した作品をお手軽に観ることのできる点で素晴らしい。これはもうインフラになってしまっていて、手放すことは難しくなっている(インフラが手放せないものとは限らない。必要最低限の文化的生活の一柱、テレビは我が家にないし、そもそも生活費に困っている。成果を上げても給料は上がらない。天引きされる保険料は戻ってこないかもしれない……ガステーブルも導入されていないので、ひょっとすると明日は生焼けの肉を食べなければならないかもしれない……夏に近づき水道水は温く、交通費をケチって職場まで歩く日が続く。僕の生活は思ったよりもインフラストラクテッドされていない)。

しかしこのNetflix、残酷な面もある。

涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)』。

2009年? 2009年っていつの話だ? 僕が5歳の頃だろうか。それとも高校生の頃だったかもしれない。2009年”版”。”版”ってなんだ? それ以前にもあったということか? 

僕が見たのは、2009年よりも前の『ハルヒ』かもしれない。小説の続編を待ち望んでいた時期もあった。あれはいつの話だ……Netflix、時の流れの残酷さを叩きつけてくるときがある。

でもこれってSFだ。最高。とにかくポジティブな織倉未然であった。

昔熱狂していたものを、あるいは何も考えず見流していたものを、時を経た今になって見直すという体験は、結構楽しかったりする。その時の気分をまざまざと思い出して感傷に浸ることができたり、やはり面白いなと溜息をついて、自分の芯の部分が変わっていないことに安心感を覚えたりもする。

涼宮ハルヒを観直して、僕はまさにこういうことを感じた。

あの頃、高校生か中学生だった僕は、この作品の取り扱い方を間違って苦い思いをしたことがある(初対面の人間で、これから友人になるかもわからないやつに対して「涼宮ハルヒって知ってる?」ってのは、当時としては痛い言動だった。そういう時代……思い出しと辛いが、まあ、でも、それは僕の個人的な話であって、この作品とは本来関係のないものだ)。

当時の僕が、ハルヒのような友人が欲しかったかと言うと、多分そうは思っていなかったし、キョンのように(一見にでも)厭世的に在ったかといえば、多分違う。思い出してみるに、こういう物語を構築したり、その中に整然と自己を当てはめることのできるような、冷静な精神ではなかった。僕はもっと頭のおかしな奴だったし、こんがらがっていた。間違いなく思春期だった。

宇宙人、未来人、超能力者。世界を改変する力を持つ、やたらとエネルギッシュな、それでいて結局は現実的な女の子――当時はこのアンビバレンスを魅力として捉えることができていなかった――そういう破茶滅茶なキャラクターと、認識をかき乱すような物語(これは昔から好みだ)。そういうのが、自分の周りにもいればいい、追体験したい、とそこまで明確な希望はなかったにせよ、言葉にすることができなかっただけで、どこか憧れを抱いていたのかもしれない。違うんだろうか。もう思い出すことはできないのが、ちょっと悲しい。

今、29歳を目前に控えた僕はどうか。涼宮ハルヒの物語を自分の青春時代に挿入して、そういう時代を生きてみたいと思うか。そんなことを考える。そして答えは、「ちょっとだけ」だ。憧れはある。でも多分、僕のキャラクターじゃない。こういう生き方はきっとできない――それはこの頃の僕もそうだし、今の僕もそうだ。

宇宙人を眺めていたい、未来人のお茶も飲みたい、超能力者とゲームをしたり、それこそ、この現実をぶち壊すような何かを求めて未知なるものを探し求める、彼女のような人間を目撃したい。でもそれは僕のやり方ではない。そして、だからこそ、この平面上で、なんだかハルヒの在り方がわかってしまうような気がするのだ。彼女のアンビバレンスは、そういうところにあるんじゃないか、と。

2009年版から10年流れたこの2019年に、涼宮ハルヒを観ることで、僕はこの作品の魅力に気づいた。それは当時とはまた違った見方で、一度観たはずの映画やアニメを見直すのは、だから面白いとも言える。現実は結構ままならない。望んでいない形で、知らないことが舞い込んでくる。季節によるガス料金の爆発とか、退職した後に届く住民税とか。でもそれは社会システム上の必要経費であり、一人暮らしの生存と地続きだ。でも、宇宙人や未来人や超能力者や異世界人は違う。彼らは外側の存在だ。それは僕の望んだ(かもしれない)、夢や希望のある外側の世界なのだ。そういった物事が同居する高校時代――僕の人生には起こらなかった、起こるはずもなかっただろう世界。それってすっごくファンタジーだし、夢がある。輝く。「この物語はフィクションです」と涼宮ハルヒが語るとき、僕の人生と”この物語”はシンクロする。隣接してはいないが、おそらく同じ平面上にある。その存在を強く感じるし、多分、この先もそうだろう。

いやほんと自分も小説作りたくなりますね。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)