Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

データベース作りたい

 データベースとは何かをよくわかっていない状態で書きます。データベース作りたい。

『知的生産の技術』なんかを読んだりすると、カードに色々と書いてそれをストックし、参照して成果を出す、という方法論が書いてある。これはとても魅力的だ。カードという方法は何度か挑戦して挫折したけれど、暇さえあれば手帳に書きつけてきた時代はある。そういうものの、二、三割は血肉になって今に生きていると思うんだけど、残りの八、七割はどこいったの、と自問するに寂しい話が待っている。

日常の細々したこと――と言うことができるほど、それは記録的なことではない。今になって中学時代の手帳を見てみると、それは記録では全然ない。びっくりするほど違う。僕はこう思う、こうならいいのに、なぜこうじゃないんだ――思索といえば格好はつくだろうか。文学の萌芽ということもできるか? 実態は、心。それ僕の心ですよ。

僕の心がそこにはあった。
 それは心としか言いようがないのだが、ご存知の通り、心だって深度がある。他者との関わりの中で無意識のうちに発揮されてしまう部分があり、自分が文字化することで初めて、対象として現前する心がある。自分の知らない心があり、このあたりはエゴとかエスとか呼ぶこともできたりする。でも正直、文字化できたところが心そのものかっていうと、これは結構微妙。成果物だけで実態を測ることはできない。even自分であっても。時を隔てれば尚更。
 間違いなく言えることは、当時の僕は(そして今の僕も)、何かを探してとにかく文字を書き続けていたということだ。できあがった数十冊の手帳、ルーズリーフの山をあまり「成果」と誇ることができないのは、この点にある。
 それらはひょっとすると、トンネルから運び出された土の一粒にすぎず、仏を探して掘り続けた木屑に過ぎないかもしれない。感覚としては、むしろこちらの方が近い。なんらかの真実がある気がして、とにかく掘り進んできた。
 たまに見つかったものを、宝物としてしばし陽の光に泳がせたこともある。でもそういう物事って、博物館に並ぶようなことではなかったし、今では宝物箱ごとどこかに消えてしまった。僕はあの時、何を掘り起こしたのだろうか。実在した鉱脈だったのか、それとも疲労に見た幻だったのか、その事実さえ失われている。


どちらかと言うと、掘り起こした物事よりも、掘り進んでいく動作それ自体に意味があったような気がする。あった、は違うな。掘り進んでいくことそれ自体が意味を為していた。目的があってやっていたことではない。だから成果物はなく、完成もしない。行動の持続が目的化していたか? いやいかなる目的もなかったのだ。そしてこれはおそらく、今になってもあまり変わらない。全ては自動書記的な行為である――ここで全て、と言えそうな程度には、オートマティックに文字を書いてしまう。これでどう物語を書いていくっていうんだろうな……。

「何ページ書きましょう」を達成するのに困難するのは、このあたりに理由がある。僕にとって文章とは、自分の意識を離れて生成されるところのものの集積に近いからだ。「こう書きたい」がないわけではない。あるとすれば、それはかなり遠くにある。めっちゃ遠く。それは光の差す方向なので、そちらを向いてしまうのは確かだが、問題はこの身体、乱視だという点がある。光が5個にも6個にも見えたりする。光とそうでないものを混同してしまうことがよく起こる。
 こうなってしまえば、単一の方向に、計画的に一歩ずつ、その日の路程を守って進むということができなくなってしまう。四方八方に拡散しながら、似た色の光を集めたところに、やがてぐったりするほど広がったところで、「やあ何かの図に見えますね。ある種の物語ですか?」ということになる。ロールシャッハテストかよって感じ。然り。
 そういう在り方が癖になってしまえば、トップダウンな構成はあまり使えなくなってしまう。これは課題。できるところは、その時その時を信じて、好きな筆運びとか、リズムとかをやっていくこと。アドリブしかない。幸運なことに、記録されたそれらを後で読み返せば、タッチやリズムの部分は好みのものに仕上がっているから、ふふっとなることもできる。意味があるのか、と言われると困るのはここだ。快楽に意味はない。快楽自体を価値とすることはできる。でもそれは目盛りの置き方によるものだから、正当性はだいぶ怪しい。畢竟、普遍性があるかというとかなり微妙。
 わからん。
 気分で僕は文章を書いている。


 それも一つの在り方だと思うし、自分的には悪くないと思っている。だから、「大勢を見て構成を感じましょう。渡されたアドリブの、せめて拍数くらいは守りましょう」というのは、単純に課題になる。義務ではなく――僕の中のマネジメント部門は「義務」と言うだろうし、外交部門は「社交性」だの「マナー」だの言うだろうが――それは単に欲しいノリなのだ。自動的に文章を書いてしまうこの装置に、未来と市場に対する感性を組み込むことができ、その上でなお自動性を保つことができれば、もっと面白いものが書けるんじゃないか、と思う部分がある。そう、思い出した、縛りプレイだ。これは縛りプレイ。でも開放系だな、縛りプレイじゃないかもしれない。
 もともと、英語だけじゃなくてドイツ語やフランス語に手を出し、プログラミング系のものもやろう、とか自分に言い出す時点でそうなんだけど、センサーを追加してそれを強化すると、視野が広がって僕は楽しい。文章の書き方もそうなんだけど、いろいろ手を出して領地を広げていくということが楽しい部分があるので、この「全体の構成を」とか言うのは、あまり突飛な発想ではない。しかも、外国語とかと違って、「自動的にやった結果がそれなりに好き」って部分があるだけ、文章書く方がやりやすさはある。

「つまり何が言いたいの」ってのは、果たして今立ち向かうべき疑問か? というのは常にある。少なくとも初稿の段階で、第1章の段階でこれを出すのはかなり窮屈だと感じる。わからん、僕はこれがあまり得意でないからわからん。あまりやらないからわからない。できて「こう見ることはできますね」だ。

 小説の書き方みたいな本をそりゃあ僕も何冊かは読んだし、何冊かしか読んでいないんだけど、そこには全体の構成についての説明が出てきたりする。あれマジでやっているひといるのか? ちょっと信じられない。できるなんて、どんだけ神に愛されてるんだ。頭のてっぺんから足の指の先まで貫くようなミューズの一撃、感じたことがほとんどない。
 大仕掛けとかを用意するのとは違って、伝えたい内容がアプリオリにあって、それを効果的に表現すべく仕組みを作るというのは戦略として正しさがあると思う。思いますよ、例えば『インターステラー』とか、そういう意味では愛の話じゃないですか。親と子の愛の話。でもどちらかというと、あれはノーランの性癖が全開だと思うし、そこに楽しさを感じてしまう。
 「親と子の愛の話」と見えるのは、X-Y平面上の話にすぎず、Y-Z平面ではもっと別の図形をしているかもしれない。そのお話が、実はθ-γ平面上に意義を構成されたものかもしれない――とはいえ、この議論も平面で捉えてしまっているから、かなり簡略化されている。立体かもしれないし、もっと高次元かもしれない。となるとどんどん話は拡散する。
 翻って、これは自分の作品についても言えるのかもしれない。
 できあがったものについて、自分が下した評定が、他者にも即ち共有されるかというと、これは結構信頼性薄くない、となる。そもそもここに広がっているのは文字の宇宙であり、可能な見方は視覚情報を頼りに、たとえば僕のこの文章なんかでは、信頼性をテーマに単語を結んで、そこに浮かび上がる図形を「ある星座」と読み上げることは可能だろうが、そしてそれこそは読み手としての僕が第一にやりかねないことなんだけど、自動で書かれてるんだぜ、困ったもんだよな。

 データベース。データベースの話をしたい。好きなものをストックして、参照しやすい形にしたい。好きかどうかわからないものもストックしたい。嫌いなもの、とはあまり考えないようにしているから、「今は特にそうでも……」みたいなものもストックしようと思う。
 参照しやすい形にしたい――実際に、ストックしたものを全て参照するかどうかは別だ。ただ参照したいものがある。取らぬ狸の皮算用だけど、自分の行った翻訳文とか、読んだ本、書いたもの、観た映画とか。それに意味があるかは、正直わからない。意味を見出すことはできると思うが、それはまだ早すぎる気がする。構成に失敗するだろう予感の方が強い。
 ただ欲望だけがある。
 欲望――これは不足に対する危機感だけではないのだな。たとえば食欲と知的好奇心は違う系だ。ただそれらを求める主体は存在する。あるいは、それらの交わる仮想的地点を、主体と呼んで占有するのだ。

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