Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

感想 : その優しさはどこから来るのですか

一人暮らされる妹の話を読みました

 一人暮らしをはじめる主人公と、その妹の話を読みました。これは連作の一シーンなんだけど、妹の描き方がとても上手だったので、記します。なお感想とも妄想ともつかない文章になるので、悪しからず。

 一人の人間にとって、住環境の変化は大きな意味を持つ。壁が変われば息遣いが変わり、屋根が変われば空も変わるからだ。仕事や学業のリズムも変化し、人間関係もその影響を受ける。家族とのコミュニケーションだって、疎になるかもしれない。

 一人暮らし、という新しい事態に向き合うならば、ここで一つの分かれ道に出くわすことになる。一人暮らしをはじめる人間に寄り添って描くか、それとも一人暮らしをされるひとびとの気持ちを描くか。あくまで理念的な図式だから、実際にはその混合として描かれることにはなるだろうし、別の観点も可能になるだろう。
でもそうと僕が気付かされたのは、この作品を読んだからだった。もしこの作品を読んでいなかったら、僕は一人暮らしをする人間だけを描写していた。

 今回僕が注目したのは、このシーンに登場する妹の描写だった。妹自身のセリフと、彼女の言動に対する兄の注釈からでも、彼女の心中を想像させるに足る。ここで重要なのは、必ずしも想像したところが正解とは限らないって点だ。
 実際、文中では、その時彼女が何を考えていたのか、どういう気持ちでいたのかは明言されない。そもそも相手が何を考えているかを把握することは不可能に近く、言動から想像することはできるとしても、正解だという保障はやはりない。
だいたい自分自身の言動についても、明文化できるとは思われない。理屈づけを行うことは可能だが、それも一つの解釈に留まり、逃れてしまうものの方が大きくなる。
 これは家族についても同じことだ。いくら同じ屋根の下で長いあいだ一緒に暮らしてきたとしても、別個の人間であることは変わりない。

 この作品の一つの素晴らしさは、そういう相手の人格を尊重する視点を持った上で、かつ家族的空間の描写に成功している点にある。

家族的空間と「兄弟姉妹」の特殊性

 もっとも、僕自身、家族とは何かをいまいちわかっていないから、ここからはだいぶ微妙な話になってしまう。
 家族だって結局のところ他人なんだけど、血の繋がりとか、同じ時空を共有してきていることや、社会性をはじめて発揮する場所になることが多いので、そういう点で個人のスタンダードになっている部分がある。
 家族という言葉の反義語に「赤の他人」がノミネートすることがあるのは、この辺りに理由がある。別個体にも関わらず、「他者」と断じ切ることが時に困難なのは、そこで育ってきた人間にとって、あまりに要素が共通しているからである。これは何も遺伝的な形質によらず、どちらかというと訛りのようなものだと思う。

 兄弟姉妹という関係は一種独特だ。なぜなら、その関係は第二世代だから。親は家族的空間を作るものだが、それは彼らにとって母語的な空間ではない。対して彼らの子である兄弟姉妹にとって、その空間は母語的である。これをクレオール的な空間の生成と言い換えてもいいかもしれない。
 親にとって子は、「血を分けた」という意味でなんか宗教的な意味を持ちかねないんだけど、対して兄弟姉妹同士は、「同じ血から生まれた」という意味で、それとは異なった意味を奏でる。本来的に赤の他人ではなくなってしまうのだが、しかし同時に別個体としての意味も強化される。親には自身の典拠を求めることができる。けれども、兄弟姉妹に対してはそれができない。「家族の一員」としか呼べなくなってしまう。
 よく強い絆を感じる相手を「兄弟」とか呼んだりするのはこの辺りが原因じゃなかろうか。他者なんだけど、同じ空間の構成員、という事態を叙述するのに「兄弟」という言葉は都合が良い(もっとも、家族でもない他人を「兄弟」というとき、そこで強化されるのは「同じ空間の」の方だと思うし、そこで「我々は他人であるが」は軽んじられている気がする。もっと言うと、その時の「兄弟」は双方向的であり、序列の意識があまり感じられない)。

「兄と妹」と性別の話

 「兄と妹」という話をするとき、性別の話をするか迷う。パッと思いつくのは、「妹にとって兄は初めて認識する父以外の男性であり」という文だが、これは異性愛主義を基礎にしているように聞こえるおそれがある。その理解では及ばないところの話をしたいので、僕個人としても慎重になって、性別の違いには距離を置く必要がある。「男のひとだから好き」とはならない。「好きになったひとが、男のひとだった」というのが生(なま)だ。

 ちょっと脱線すると、僕がスールの概念の虜になっているのは、性別の違いという強力な前提を無視したところに、愛なる志向が剥き出しになるからだ。
 この趣向は「おおかみこども」では猶予つきで、「アイドルマスターXENOGLOSSIA」では直截的に表現されていると見える。ついでに言うとBBC製作の「SHERLOCK」では、度々同性愛者の疑いをかけられることで(あの作品中では、理解ある人々ばかりとはいえ、疑いとして機能している部分もあったと思う。全編通じて何度も繰り返される)逆にそうではない、そういう言葉では足りない、シャーロックとワトソンの強い関係と、モリアーティーの執念が強調して描かれている。
 もっともここまで来ると、愛なる言葉は、何も示さないかあまりに漠然とした用語になってくる。愛という言葉が、単なる駆動力にまで還元され、その理解がスタンダードな認識になるまで、この言葉からは距離を置いた方がいいように思う。

 僕自身の態度がいささかなりとも明らかになったところで、兄と妹の話に戻ろうと思う。

それは紛れもなく妹だった

 妹とは何か、という疑問があるとすれば、この作品は一つのアンサーになる。それは僕好みの言い方をすると、「ひとつの事態」だ。たとえば「血の繋がった妹」と言うとすれば、そこにはちゃんと理由があって、「血の繋がっていない妹」というのも十全に「妹」として機能しうるからだ(そのことは別の作品で示されている。あれが妹でなくてなんだったんだ?)。

 この作品にたく越している部分は、まず「妹」の表現力にある。主人公の引越しに伴って、家族の年の近い一員が離れてしまうという不安を、その年頃ならそう表現するだろうし、それがうまく部分で・全体で表現されているのだ。
 妹自身もあまり口数が多くなく、主人公もそうだといえる。加えて、兄弟姉妹という特殊な関係性だからこその、相手に対する認識の甘さもある。たとえば、兄による妹の描写「なんだあいつ、急に怒って」というセリフにもそれは見られる。相手に対する関心の薄さというよりかは、盲点になっている感じ。でもこれは、一人暮らしをする側の人間としては、当然な言動である。
 一方、「急に怒って」とされる妹の方はどうか。ここを考えると、その子の感情の深さに気付かされる。明確な動機があってそういう態度に出たのか、自分自身でもよくわからないままにそうするしかなかったのか、この点については明文化されていない。各々がどちらかの解釈に賭けることはできる。別の解釈も当然可能だろう。そして、解釈に対してオープンな描写がなされることで、逆に一人暮らしされる側の人間という視点に思い当たることになる。
 この「兄と妹」だけをとっても、彼らの普段の生活が想像される。これって脅威的だ。彼らが普段どのようなコミュニケーションをとって、どのような空間を醸成してきたのか、想像力が刺激される。そこに広がるのはひとつの家族的空間だ。

 ここには家族という空間がひらけている。そしてそれを満たすかのように話は進行していくことになる。引越し先へのその距離は、はたして物理的・心理的に遠いものだったろうか。兄と妹の関係性が、空間的な距離を超えるとしたら――それは訛りのように、母語のように、必ず空間を超えるものだけど――それは二つのアイスクリームが一緒に溶けているような、そういう在り方なんだと思う。

 同じ屋根の下で暮らしてきた、家族の一員がどこかへ行っていまうのではないか、という恐れにも似た感情が――あるいは不安かもしれないし、それとも名前のつかないもっと漠然とした感情かもしれないものが――ここには描かれている。そういうものを捉えることのできる繊細さと、それを描出できる丁寧な演出力。その総合力が信頼に値する。

末尾に代えて

 このアイスクリームの話は、アイスコーヒーの話に繋がっている。そこでは同じ「冷たくて溶けるもの」がキーテーマとして機能しているが、しかし与えられる感触や濃度が異なっている。家族という共通要素を持たない相手に対しての主人公の試みが、やはり繊細かつ丁寧な筆致で描かれる。もうこの空間が好きですね。

 作品と作者を結びつけるのはマナーの問題として自分の中では回答が得られていないので、回避しますが、この感性にある優しさと落ち着きはもう素晴らしいと思います。ありがとうございました。