Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

織倉日記

消灯時間を過ぎているので手短に。

生きています。
こう書くと、「果たして"生きる"とは…?」とか言い出しかねない。実際に言う。「生きる」という単語で、哲学的に追いたいのは、エランヴィタール。「生の跳躍」と書かれたりする。これはアンリ・ベルクソンの言葉なんだけど、ベルクソンは面白いからね。

ていうか「跳躍」なのか!
ベルクソンは「持続」のひとなんだけど、そのひとが「跳躍」って言葉を選択するのは、これとても面白いことなんですよ。ドゥルーズをちゃんと読まなきゃな……。おすすめ。

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

部屋の片付けについて

どうせ長くは住まないだろうし、ということで、部屋の調度品を少なめに揃えていたんだけど、とうとう2年半近く経過してしまった。生きると本が増えていくので、本棚も増えてきているんだけど、こと本と本棚以外の収納が壊滅的。このあたりをなんとかしていきたい。

誰かと一緒に過ごすことを想像できないままやってきた。第一の理由は自分の精神だが、そもそも想像力が働かない。自分の部屋を見回してみると、他人が存在できるスペースとか文脈が生成されないのでは、ということに気づく。一人暮らしの自分の部屋だから、自分にとって必要な機能だけがあれば事足りるんだけど、これではあまりに自己中心的だという見方もできる。他者との生活がシュミレートできるような余裕がない。ここに限界がある。

灯台下暗しという言葉があるように、自己は認識の盲点になりがちだが、自分を客観視する上でももう少し空間の使い方を考えていこうと思う。「本しかねぇ」と「本がたくさんある」は違う。僕には本しかない人間だ、というのは下手すると落ち込みを招きかねないが、僕には「本がたくさんある」という外からの視点は、そういう時に助けになりやすいかもしれない。実現生は薄い話だな。

部屋の片付け、最適化。これはアウトプットを要求してくる。たとえば、書き溜めてきたノートを処理するためには、それをまとめて形にするのが手取り早い。

たとえば、僕の日記には「仕事行きたくない。今の仕事に情熱をもって取り組めない。疲弊するばかりだ」というようなことが書いてある。日記だから、主観的で全然問題ないんだけど、これでは嵩張るし、参照しにくいまま溜まっていってしまう。参照しやすくすることで、学びになるかもしれないし、同じような落ち込みを回避できるかもしれない。このあたりを色々考えている。

iZ などなど