orikuramizenのブログ

フランス語、ドイツ語、映画や本についてなど。いろんなことを横断的にやっていこうと思っています。

君だけの16歳

ゴーストファイト・スタート!(カーン!! <- ゴング。僕は矢印の使い方を間違えている。いや、矢印自体は普遍的な印だろう、僕が正誤を判断するよりもっと、トランセンデンスな圏域にその根拠はある。僕がここで間違えているのは、おそらく時代だ。<= 結論、と謳われたのは2007年のことだった。当時は17歳だった僕も、今では16歳になっている)

年齢を保証するのは、戸籍だという話。

 私は何歳です、という言明は、かなりの真実を含んでいるように感じられる。しかしそれはあくまで「かなり」であり、根元的な真実だということにはならない。1のあとに2が来る、というのは1つのルールとして、広く了解されているところであり、「私は何歳です」はこのルールを引く形で成立している。

 一般常識とか集団心理といった、広く共有されている観念というのは、天上にある。というか、これらの想念の集合体は、一つの大気層を構成していると言える。
 1のあとに2が来る、というのは一つの塔のようなものだ。あまりに頑丈なので、人々は信頼を寄せる。信仰すらする。パワーを感じることもある。これはまた、とても背の高い建物なので、多くのひとから見ることができるし、一般意志から成る大気層を貫いている。

 塔は光を発している。あるいは反射しているのかもしれない。とにかく灯台のように機能する。そこから発しているように見える光は、一般意志の大気層を明るく照らす。そのせいで人々は、ここに神、ないしは力あるものが住むと認識し、自身の主張の根拠とする。曰く、「去年は15歳だったのだから、今年は16歳になる」という風に。

 しかし問題は、これは一つの尺度にすぎないということだ。これがどうして問題になるのか。僕らはおそらく、16歳らしい16歳を満たすことはできないからだ。レーダーチャートの一つの角を突き抜けることはできるかもしれないが、完全な16歳は実現が困難だ。

 16歳という概念は存在する。32歳ならこう然るべき、という概念がおそらく在るように。そして間違いなく、これらの観念は、塔の光で満たされている、永遠に僕らの属することはない、一般意志の大気層の内側に保存されている。

「年齢以上のものは書けない」というテーゼの話

 今年で16歳になる青年には、32歳の男の人生を描くことはできないのだという。これはどこかの本に書いてあった話で、それか通りすがりの幽霊が呻いていた言葉だ。曰く、人生経験が少ないから、32歳の男なら当然気にするだろう事柄が書かれなかったり、32歳の男が身に着けるべき態度が反映されていなかったりするのだと言う。これはリアルさの話とされる。

 これは「リアル」と呼び習わされてはいるが、しかし「アクチュアル」なものではない。ここには大きな隔たりがある。リアルは幻想なのだ。誰もがそうと了解する16歳は、必ずしも実際に送られる16歳の一年間を意味しない。なぜなら、広く了解される16歳という概念は、実際に過ごされた16歳の最大公約数になるからである。
 塔の機能はここにある。
 実際の生活地平から、16歳概念を吸い上げて、光として一般意識の大気層に照射するのだ。前述した通り、それはあまりに強い光なので、地上に住む人々からすれば、本物の16歳がそこにはいるように思われる。
 一人が見た幻は狂気とされるが、多くの人々が目撃すれば、それは真実となる。かくして、16歳の神話が形成される。
 困ったことに、人々はそれを神とは認めない。現象としては信仰はしていることになるのだが、それは同時に現実(リアル)なのだ。その神話を自分が生きたわけではない、しかし生きることのできるものだ、と盲信している。中には、事実そう生きたのだと、自分のアクチュアリテを歪曲する者もいる。現実(リアル)は強化された信仰である。

 16歳には何が必要だろうか、と考えることには意味がある。それはまず頭の体操になるし、自分に足りないもの――それを身につけることができれば、もっと魅力的になるだろう事柄――が見つかるかもしれない。これはポジティブな発想で、まだ地上に近い考え方だ。
 上から降ってくるものを信じてはならない。「16歳だからこうすべきだ」という形式で振りかざされる言説は、リアルさという名の下に行われているらしいのだが、暴力であることには変わりない。
 リアルは雲の中にあり、誰かと誰かと誰かの生きた16歳の結晶体に過ぎない。僕らは塩の塊ではなく、それらが溶けた塩水のような存在だ。自分なりの16歳というのがあるはずだし、事実それは今の僕らがそうであり、望むと望まざると関わらず16歳は生起し続ける。「はず」も何も、現に「そう」である。
 

地下室で一人だけの映写会を開く話

 意識するしないに関わらず、通り過ぎてしまう日々を、歳月の尺度に照らして分割することに、果たしてどれだけの意味があるだろうか。15歳と16歳の僕では何がどれだけ変わったのか。有意な変化を並べて、そこに1年以上、2年未満の差を読み取ることはできるかもしれない。
 これは一つの想像力の作用だ。
 完全に主観的な幻覚を見ていることになる。もはやここまでくると、塔の光は影響をそれほど持ち得ない。この操作はどちらかと言うと、地下室で行われる秘密実験に似ている。日の目から逃げ、狂信者達の視線からも隠れ、自分の幻覚を追求する作業だ。頭の中にゲートを開き、想像の世界に旅することと似ている。
 無理して1の後に2を並べる必要はもはやない。16歳をそのまま倍にしたような、32歳を描くことだってできる。そもそも、1の横に2が来るとして、定規の上ではそれは水平方向並んでいるが、時計を見よ、1、2、3は円を描くように並んでいる。配列を歪める操作にはすでに慣れているはずだ。星型に配置することだって無論できるに違いない。

僕はアクチュアルであることを望む。