Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

あるジャンルの死について

 あるジャンルの死について語るとき、どうしたって避けられないのが「死とは何か」ということだと思う。
 可能な定義の方法として、まず新たに生まれてくる作品の数だとか、その売り上げとかが考えられる。けれどもこれらは、再生産の停滞を示すことにはなるだろうが、死そのものを示しはしない。どちらかといえば、休止・休眠の方が近いだろう。今は冬なだけで、春が寝坊しているだけだ。待て、しかして希望せよ、という奴だ。
 問題があるとすれば、果たして自分の生きている内に、そのジャンルの冬眠明けを再び目にすることがあるか、という話でもある。
 冬を縮めて、春を近づけることは難しいかもしれない。

 死はそもそもどう観測されるか。他者的なものについての死は、出会えないことで確認される。死んだ祖父や祖母には会うことができないし、彼らと再び話すこともできない。日常を報告することや、何らかの共感を得ることも難しい。この再会ができないこと、交流の機会が永遠に失われたこと、要するに、新たに動的なものが生産されないことは、死と似ている。
 しかし、この前提には、時間に対する感覚が似ている。2019年は2018年より後の一年であり、その順序は絶対的だとする固定観念がある。現実には、2016年にリリースされたアルバムのあとに、1996年にリリースされたアルバムと出会うこともある。これは新しい出会いになりうる。
 ここで強調したいのは、何も客観的に是とされている時間ばかりが絶対的な軸ではないという点だ。主観的に構成される時間をもう少し偏愛しても良いと思う。出会ったその日は、十分そのひとにとっての記念日になりうる。結局は「好み」という引き出しの中にごちゃまぜにぶち込まれることになるのだ。そこに時間は存在しない。

  少し脱線したので、話を元に戻すと、果たしてその死は真実の死なのか、それとも主観的な死なのか、という点だ。ないものを求めて、その不在を死と呼ぶことに、どれだけ正当性があるのか。当然議論を呼ぶことになる。
 一方で、それがたとえば、個人的に感じた死にすぎないのであれば、その感性は尊重すべきものとも言える。ある不在に死を感じたなら、それは仕方のないことだ。新しい恋人に別れた相手を思い出してしまうことを、誰が禁じ得るだろう。ちょっと難しい。常に何かの影を追いかけている、ということはよく起こる(この点で、原体験は生き続けているとも言える)。
 ただ、この不在の属する先は、よく検討する必要がある。果たしてそれはそもそもそこに含まれていたのか、目の前にあったはずのものが失われているのか? 目に見える全ての物事に、それはあってしかるべきだ、とするのはちょっと悲しさで溢れている。
 あなたの感じたその死は、果たしてそもそもそこにあったのか。それともあなたの心に空いた穴を埋めるものを求めて、その結果死を見つけてしまっているのか、というのは僕にとっても重要なポイントになる。自分の外側にある死と、頭の中にある死を分けて考える必要がある。

 ひとつのジャンルに死はあるのか。僕らが求めているのは、地上の支配者たる恐竜なのであって、ゴミを漁る黒い鳥などではないのだ、と言われればそれまでだという気もする。僕らは恐竜が、再び大地を闊歩することを夢見ているのだ、と言われれば、それを止めることもまた難しい。
 ただそれをして、目の前にあるものを殺してしまうのは、どうなんだろうとも思う。不在について語るのは良い。そこに求めたロマンを語るのも良いだろう。でも、現に生きている物事に死を付随するのも正しいかと言えば、それは当然議論の的になる。
 不在だらけの世界を生きる方法を探していきたい。