Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

042本目 : カンフーハッスル(2005年の映画)

少林サッカー」に続くチャウ・シンチー監督・主演作。 日本公開は、2005年元旦とのことで、同じ月には『オーシャンズ 12』が封切られている。年単位で言うと、『コーヒー&シガレッツ』(4月)、『ミリオンダラー・ベイビー』(5月)、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの逆襲』(7月)、炎のゴブレットもこの年か。僕は15歳だった。

Netflixで観た。

あらすじ

 1930年代の上海。「斧頭会」という暴力組織が幅を利かせている。黒服に手斧がトレードマーク。『ウエスト・サイド物語』みたいな感じでみんなで歩いてきたりするのが面白い。  この斧頭会の構成員を名乗るチンピラ二人が、貧困地区「猪籠城寨」(字幕では豚小屋砦。じゃなきゃ読めない)にやって来て、難癖つけたところ、返り討ちにあってしまう。どうにもここの住民、只者ではないらしい。  チンピラの一人、シンという青年は、爆竹を投げると、 ~偶然にも~斧頭会のメンバーに直撃し、そこから、この斧頭会 VS 豚小屋砦出身者という構図が出来上がる。  豚小屋砦出身の達人 VS 斧頭会が雇った暗殺者の「いやいやありえないだろ」という感じのバトルは面白いし、ハラハラさせられる。その中で、幼い頃に歪んでしまった青年シンが、次第に覚醒していく。  全部で95分。

創作上の学び

ある作品における命の耐久性について

 シンのあまりの打たれ強さと演出が合間って、はじめそれが単なるギャグだと思ってたんだけど、そうじゃなかったのかもしれない。鑑賞後には、あれは隠された力の片鱗だったのか……? みたいになって楽しい。
 映画には、作品ごとに独特な「命の耐久性(デュラビリティ?)」みたいなものがある。漫画だと100トンのハンマーで殴られて、たんこぶ一つで済んだり、物にぶつかって変形して済むトムさんみたいなやつ(トムとジェリー)のことを僕はそう呼ぶことにする。
 この視点から見ると、『カンフーハッスル』という作品では、冒頭で結構凄惨な暴力が振るわれるし、ショットガンで女性は死んだりするので、「ああそういう耐久性ね」と覚悟を決めていたところ、複合住宅の上の方から落下しても大事に至らなかったりするので、かなり困惑する。
 この「生命の耐久性」みたいなものって、作品の基本的な態度になると思うから、ちゃんと設定が明かされていないと気になって仕方ないし、最悪「一貫性」がないとして、笑うしかなくなる、といったことにもなると思う。ギャグにはギャグの耐久性の基準があって、一応はそれが守られなければならない。
 この作品の中盤まで感じることになる、命の耐久性への不思議が、全て「達人だから」で処理できるものだったのだとしたら、一応の落ち着きを得ることはできる。達人だし、ギャグだから、と。

 ただし、自分の納得できない過剰な演出があったとして、それを全て「ギャグ」として良いのか、という疑問は当然残る。浅い感想は、時として白旗をあげることにもなるのだが、だからといって、常に深く考える義務も特にない(というか、体力的に難しくないか)。全部がギャグだったのか、あれは「達人」に対する神秘を表したものだったのか、過剰に表現することで登場人物の心理を強めたのか……自分の中で決着は出ていないけど、そういう分類もしていくべきなんだろうな、と思った。