Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

1日が溶ける

分節化されていない日常を送っている。こんなはずではなかった。何度も寝て、意味もなく薬の類を飲み(胃腸薬とか)、食事らしき食事も取らず、へいへい何やってんのって感じwow。

これ、分節化されていないからです。時計ってくるくる回るんだけど、欲しいのはこう、回らず溜まっていく目盛り。「今日は残りxx時間です」「市民、xxの時間です」って掲示してくれるシステム。やはりラズパイに手を出す時が来たか。ずっとやりたいって思ってたんですよね、電子工作。

メンタルの不調に合わせて、「小説を書かねば」と呪いのように思っていた日々が続いていた。次第に緩和されてきて、今ではどうにか「小説を書きたい」になってきている。「書かねば」から「書きたい」に自発的に切り替えることができれば一番なんだけど、なかなかこれが難しい。その時が来るのを待つしかないってのはなかなか辛い。

「こんなことして何になるんだ」ってのはアラート。そしてダウト。瞬間に意味を生じさせることの方が難しい。継続することによって、何らかの意味が見いだせるようになる。点が三つ並んでると顔に見えるよね、みたいな現象をシュミラクル現象と言うが、たとえば文章を書いたり、語学をやってたり、精神医学のテキストを読んでたりすることに意味は付与し難い。だってそれ刹那だもん。せめて三つ揃えて顔にして。

同様に「そもそもxxを初めてきっかけは……」と歴史を紐解くことも、必ずしも有効とは限らない。落ち込んでいる精神状態というのは、井戸の底に落ちてしまったようなもので、これは途絶を意味する。過去とか、本来あるべき姿(自分の中の基準面)からストンと落ちてしまい、そことの接続が取れなくなってしまった状態が鬱状態

「書かねば」から「書きたい」へのシフトについては、この井戸の話がよく当てはまる。どこからか流れ込んでくる水が自分を元の大地に押し上げてくれるのを待つしかない。けれども、井戸部分から大地に這い出すにはエネルギーが必要で、大地に這い出せたとしても、二本足で歩けるかというとこれも微妙。ぶっ倒れたままで身動きせずいると、その形のまま沈んでしまって、目を覚ますと井戸の底にいることになる。

こう考えていくと、大地なるものは、それほど大地ではない。疎を性質としている。正体は蜘蛛の巣のようなもので、何かと何かの連携の上に引っかかっているのが、今のぼくであり、主体的なものなのだと思う。これを船と言ってもいいし、ならば井戸は渦と言っても良い。

「こんなことをして何になるんだ」を禁止しろって言うわけじゃない。これを有効活用することはできないものか。「こんなことして何になるんだ」は放置すると「何の意味もない」を引き寄せる。同じ問いを重ねると、少しは強度が出てきて、検証が可能になるかもしれない――と思いもするが、そもそも「こんなことをして」というのは、あまりにフラジャイルなので、重ねるのもまた困難だ。

ここに革命が求められる。「そもそも求められている意味とは何か」を考える。復元する先の大地を引きおろすのだ、と。いやしかしこれは、更なる貧困を招きそうで辛そうだな。革命が必ずしも良い結果を招くとは限らない。

参りますね。