Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

織倉日記

 これを書いたあとぼくは凹んだが、お腹いっぱいになったら大丈夫になった。
 お腹がいっぱいで余裕がある時に読めば、大丈夫だと思う。

・・・♪・・・

 「きみは内気な性格なのかい」と聞かれた。反射的に(若干ムキになって)「そんなことはありません」と答えてしまった。今になってみると、あまり良い態度ではなかった。自分の中の論理に曰く、「話題がないだけです」とのことなんだけど、これもまた感じが悪い。

 事実、「大人しくて、引っ込み思案。周りのひとと会話で盛り上がっているところを見たことがない」という評価もされることが多い。ぼくとしては、これは一面にしか過ぎないんだけど、でも、たとえば職場では、その一面で対応しているわけだから、彼らにとっての全部でもある。
 このあたりに彼我のギャップがあるわけだ。

 「コミュニケーション取ってますか?」と聞かれたとして、ぼくが連想するのは、友人との会話だ。そこでは饒舌だったはずなので、自分はよく喋る方だと思っている。思いがちだ。
 ただし、これは上の「そんなことありません」に感情を乗せたしまった理由としては、若干弱い。

 おそらく、自分の中に、「ひとと活発なコミュニケーションが取れないぼくはダメなやつだ」という固定観念があるからだと思う。あくまでぼくが自分自身を認めていないという話だ。

 念のために付記しておくと、ぼくはあまりコミュニケーションを取れ、と他の人に言わないようにしている。コミュニケーションの重要性を説くことはできる。効用がある、と話すことはできる。でも、それは絶対的な価値じゃない、という前提に立っている。しかしこの前提を話さないことも多いので、誤解を招く。コミュニケーションを取れ、これからは極力言わないようにしたい。

 そのひとの間合いがあるだろうし、活発なコミュニケーションを取ることが、いつも正しいとは限らない。一方で、活発なコミュニケーションとやらが生み出す効用というのはあると思う。目に見えやすいから、それが広く是とされるのもわかる。――そう、この「広く是とされるのもわかる」というのが、ぼくの問題なわけだ。

回想1

 実は、この活発なコミュニケーションとやらを実践した時期がある。大学に入った直後のこと。いろんな人に話しかけ、議論の場では進行を務め……とがんばった時期。ぼくはその頃の自分が嫌いだ。実際疲れて辞めてしまった。エネルギーの消費が尋常じゃなかったし、「仕切り屋」「偉そうなやつ」という声が聞こえてくる。もう2度とやりたくない。

 当時のぼくに言わせれば、「ただでさえ退屈な講義なのに、ほっといたら誰も意見を言わないから、仕方なく俺がやっている」とのこと。嫌な奴だ。誰も頼んでいないし、そもそも大学の講義なんかでマジになんなよ、と言われかねない。実際ぼくも自分にそう思っていた。

 弁護側に回るなら、当時のぼくは、少しでもマシになればいいなと思っていた。どうせ退屈なんだったら、暇つぶしだと思ってさ、的なノリだった。意見を求めたら返してくれるし、ちゃんと意見があるのに言わないのは勿体ないと思っていた。白状すると、ぼくが暇だっただけなのだ。でも余計に疲れた。その講義はある週から行かなくなった。単位も落とした。その後、彼らがどういう講義の受け方をしたのかは当然知らない。

 一つ思い出すのは、「きみがいなくて、話し合いが進まなくて困った」的なことを、同じ講義を受けていた子に言われたことだ。「どうして休んだの?」「疲れたんだ」と答えたことも、思い出す。
 

 意見の求められない、ただ聞くだけの講義は楽だった。でも視力が悪いのに眼鏡を作らず、前の方にも座らないから、当然何が起こっているかわからない。こういう講義も行かなくなった。

 同じように出席がまばらでも、他の学生はちゃんと単位を取得していた。彼らには彼らのネットワークがあり、互助制度が整っていた。ぼくはそういう組織に属していなかったので、恩恵を受けることもできなかった。

 「今更どの面下げて」とか「アンタ誰?」となるのを恐れていた。「そもそもそんなに親しくないよね?」となるのは必定だった。だってその通りなのだ。互助組織に属するためには、その場しのぎのコミュニケーションじゃダメなのだ。毎日欠かさず連絡を取り合って、そうして少しずつ存在感を蓄積していく。そういうところに、資格が形成される。ぼくはそれをしていない。できなかった。

 今も昔も苦手なのは、携帯やらスマホやらで連絡を取り合う、というやつだ。グループに参加して、話に参加する。昼夜を問わず活発なコミュニケーション。昔のぼくなら、「自分の時間が欲しいから」とか言うかもしれない。半分は嘘だ。「買いてあることの意味がわからない」とすれば、ちょっと正しい。

 今のぼくが参加できるか、と考えると、これもやっぱり無理だ。グループの会話の全貌を把握して、自分の発言が参加者それぞれに与える影響を予測して、適切な言葉を打ち込む、という労力はデカすぎる。

負の感情の生産について

 ゴシップの類が苦手だ。ネガティブな話題も嫌だ。そういうものは人を惹きつけるらしいことは知っている。実際に内輪でそういう話をされるのが本当に辛い。前の職場を辞めたのも、これがぼくに与えた影響が大きかったと思う。ストレスは伝染しやすいんだけど、ぼくの場合はこれを自分の中で増殖させてしまう。

 たとえば 職場に対するフラストレーションが発言されるとする。大学の例を続けるなら、その講義に対してとか、指導教員に対して、ということになる。発言者にとっては、ストレス発散のつもりかもしれない。聞き手としてどう応答すべきか? 否定はできないから、乗っかるしかない。

 共犯者になることが怖いわけではない。そのことが上に知られて、懲罰を受けることを恐れているわけではない。彼らにそう感じさせる原因は実在しているし、確固たる現実だ。風景のようなものとも言える。

 消耗するのは、全く別の理由からで、それは自分が負の感情を無限に生産するからだ。これに耐えられない。負の感情の生産速度はとても速くて、他のエネルギーを全部消費してしまう。そうするともう全てが困難になってくる。

 この連鎖から離れるためには、距離を取るしかない。こうして友人がまた一人減る、という仕組みになっている。おまけに、そこには「自分勝手」という非難もついてくる。そこで逆ギレでもできれば良いのだが、それもまた道理に適っていないと感じる。「俺はきみに共感していたけど、ちょっと無理になってきました」というのは、逃げだと言われれば「そうだな」とも思う。

 仲の良かった女の子と疎遠になったことを思い出す。「わたしはこんなにしたのに、あなたは何も返してくれなかった」。よくある話だ。まったく返礼をしなかったわけじゃない。しかし、それは全く満たないと言われれば、その通りだ。実に申し訳ない。「今は本当に辛いんだ」「あなただけが辛いわけじゃないんだよ」。本当にその通りだと思う。世の中には多種多様な辛さがあって、常に個人的最大風速で心をかき乱している。きみの辛さに比べれば、ぼくの「辛い」は甘えにしか聞こえないだろう。多分、いや間違いなくそうなんだ。全部ぼくが弱いのが悪い。

 ぼくはこれが辛かったので、他のひとには言わないようにしたい。

まとめ

 ぼくは活発なコミュニケーションを取れる人間になりたい。しかしそれが実現できるか、というとかなり困難だ。そこには大きな心的リスクがあるし、過去のトラウマもある。そういうものを乗り越えて、その場しのぎでなく、継続的なコミュニケーションを続けていけるか、となると難しい。職場で仕事とは全く関係のない話をして、連絡先を交換し、余暇を費やして遊びにいくことができるか? 今度は裏切らないように、戦線に留まることができるだろうか。負の感情の生産を抑制することができるだろうか。心の内圧に負けず、溢れることもなく、誰かを支えて生きていけるのか。

 そういう人間になりたい、という憧れが強くある。一時は諦めたが、それでもどこかには残っていたらしい。できるかどうかではなく、やるのだ、と自分に言い聞かせているところもある。他のひとには求めないくせに(そういうことをする自分でいたくない)、どうして自分には求めてしまうのか。「だってそうしないと、社会に認めてもらえないじゃないですか」。

 社会に認められることが、即ち良いとすると、それもまた短絡的すぎる。しかも、多様性のある社会を望むくせに、ここで「認める」の主体として想定されているのは、とても狭い価値観の社会だ。ここにぼくの問題がある。主義に反しているくせに、現実として設定してしまっている。強大な力をそこに見ているし、ストレスを感じている。

 社会に認められることを目指すこと、これは自衛のための手段ともいえる。活発なコミュニケーションを取れるようになることで、そこに生まれる効用を活かすことで、ありうる(現にあった)非難(の再現)を回避することができるだろう、とそう期待している。

 期待はするが、実現可能性はほとんどない。どちらに進んでも自分を傷つけることになる。原因はなんだ、と考えると、もうここまで書いてきて明らかになった。自分に厳しすぎる。ではどうするかと考えると、「甘えるな、歯を食いしばれ」と聞こえてくる。その通りだ。