Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

感情の制御について

「歳をとって涙もろくなった」――それ、感受性が豊かになったのではなく、老化では? というような話を見かけた。ぼくは前頭葉に知り合いがいないので、確かなことはわからない。

 似たようなコンテキストで「涙脆い」と「怒りをコントロールできない」というのが等価的に書かれていたのも見かけた気がする。ただし、「涙脆い」ので「怒りもコントロールできない」とはならない。「涙脆い」し「怒りもコントロールできない」という二つの状態が並列することはありうる。「感情が制御できない」故に「涙脆い」し「怒りもコントロールできない」ことは起こりうる。けれども、「涙脆い」からといって、即座に「感情が制御できない」とは限らない。

 心配しなくて大丈夫ですよ、その感情は問題ありません。

 こみ上げる感情Aに対して、そのままにさせるか我慢するか、というフィルタリングが働くと思う。さっと兆した感情を深く掘り下げて、間欠泉を得ることもあってよい。慣例的に、感情と思考は対立するものとして語られることが多いが、同じ脳内で働いていることもあるし、地続きなものとして捉える方が自然な気もする。相補的なものじゃないか。

 お気に入りの曲を集めて、自分だけのプレイリストを作ったことがある。感情もそのように、うまく保存しておくことができると良い。適宜、感情を呼び起こすことができないものか。難しい。別に感情は、意識の及ばぬところで自然に発生するものとは限らないのです。とはいえ、恣意的な感情、人工的な感情、と表現すると、これまた納得いかないものも確かに感じてしまうのだな。

 ちょっと自分の感情に対して、懐疑的なところがある。幸運にも「嬉しい!」となったとして、すぐ「本当か?」とか「ウレシイ…って何?」と水を差されかねない。そこで「嬉しい!」=「セロトニン!」などと関連語を想起すると、自分の中の反対勢力を押さえ込みやすい。自分の中にも舵取りが必要だ。祭りなら祭りと騒ぐポジションが求められている。

 ある感情Aが閃いたとき、それを叙述しておくこと。あとで忘れてしまうにしろ、その瞬間は記録の体をとって、「なぜ」とか「どのように」を作っておくと、だんだんその感情を信じられるようになってくる。ポジティブなフィードバックをもたらす感情であれば、叙述の方を癖にしておくことで、未来で落ち込んだときに参照可能だし、ネガティブなフィードバックをもたらす感情であれば、一通り記せば頭も落ち着くことが多い。まあそれはそれとして、と処理できる。

 これは怪我の功名みたいなものです。感情が閃いたときに対話できる相手がいることの方が珍しく、幸運なんだけど、常時それが可能なのって自分しかいない。幸運なときには、まとめて話すことがある。一方、感情をそのまま放置しても、今まで得られるものがなかったし、失うものの方が多かった。

 喜びは抑えるな、怒りは抑えろ、一人で隠れて泣け、というようなルールがあるんだろうな。ぼくの中にもあるんだけど、これは経験から学んだ話だったり、親とかに言われたことだ。これを他人に求めたくはないな、と思う。むしろ、喜んで欲しいし、怒って欲しい。一人で泣かなくても良いんだよ、とも思う。全部up to youだが、いつか「もっとわたしを頼っていいのよ!」ってなれる日が来るんだろうか……。
 ひょっとすると、これはぼくの憧れのひとつなのかもしれない。感情を素直に出せるひと。

 原初の感情封鎖は、5歳のとき。大きなスーパーで親とはぐれ、歩き回りながら両親を呼んでいた。もう店の端まで届くような声で叫んでいたわけだ。でもその日、ぼくは突然冷めてしまった。「そんなに叫んでなにになるんだ?」。あれ以来、親を大声で呼んだことがない。