Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

馬券を買いに行くということ【途中稿】

今ではインターネットで馬券を買うことができる。それなのに、どうしてわざわざウインズまで行って競馬を買うのか――これにも一応理由というか効能のようなものはある。引きこもりのような生活をしている身にとっては、「馬券を買おう」というのは貴重な動機なのだ。普段、コンビニやらスーパーにその日の食事を買いに行くのとは違う。ちゃんと身なりを整えて、交通機関を利用し、街に出ることになる。いつもは省略している手順が活性化される。ほとんど損なわれて久しい、人間として当たり前のアクション。それらの復権は、季節の移り変わりや街並みの変化を体験することにも繋がる。家にいたって季節は分かるけれど、街ではより高度な季節感が展開されている。時宜に適ったデコレーション&イルミネーション。流行に触れる機会にもなる。我々の生きる、前まではぼくもその中で生きていた、夏祭りやハロウィンやクリスマス、お正月といったイベントに彩られた文明的な生活――そういうものに参加し、そういうものの存在を思い出すには、この動機ってやつが必要なのだ。

競馬の面白さの外観

基本的には、自分より大きな生き物が一生懸命走っている姿が感動的だから、というのが軸にある。人類という種族のエゴで生産され、調教を受け、レースの成績などによって運命が左右される……という経済動物の運命みたいなものに、自分を重ねたりもしている。一応我々には人権があるらしいので、(成果が出せないものは廃棄されるというような)極端な展開にはならないにしろ、他者の思惑にかき乱されて自由な在り方を制限されているという点にはシンパシーの種があると思う。種族が違えば、運命の質も変わってくるし、悩みの形式も変わってくるというだけの話だ。

競走馬が背負っている宿命とやらを考えるとき、ウマという生き物の持つ凄さと人間の強さと弱さを考えることになる。あの体躯から繰り出されるスピードと迫力、美しさ。一方で、スピードこそはなくてもどこまでも歩ける体力とかすぐ病んでしまう*1精神的脆弱性とかも考えてしまう。ここら辺は、一本の線上に整理された項目ではないので、ご了承願いたい。犬だって条件次第で病むって事実は、パブロフの例を出すまでもなく明らかになっていることだ。

まとめると、レースの魅力とは、デカい生き物が全力を尽くしているように見えるから、というところにある。そして、そのひたむきさに心打たれるのである。おれもがんばろうと思える。ていうか、高貴な生まれの者たちが泥まみれになりながら、全身全霊で駆けていくいく姿ってそれだけで魅力的だ。*2

面白い裏話や自分が見たレースで健闘していたから、などでファンになった馬が活躍するのであれば、喜びはひとしおだ。しかし馬に内在している要素ではない。人間側の言う「悲願の〜」とか「何勝達成」とかも一緒で、アクセントにすぎない*3。この瞬間に弾けるスピードとパワーが面白いんだよな。で、それらが蓄積されていく様子、現在進行形で紡がれつつある歴史ってのにワクワクする。歴史の証人になっている、というライブ感。約束された勝利がないからこそ、勝利と健闘に湧き立つわけです。

あと人間じゃないのが良い。人間のことなんか知らん。鳥でもないのに二足歩行なんかするんじゃないよ、生意気だな。おまけに火まで使うのか? 危ないな。インターネットで愚にもつかないことを呟いているのか? 人類皆シャーマンかよ。神界との接続を断て。即物的な現実に帰依しろ。河原の石を積み上げろ。オアシスは火曜日と木曜日はサービス停止します。

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どういう態度で馬券を買うか――当てに行くわけじゃない

競馬はギャンブルだ。ここで第一義的に考えたいのは、「成果の分からない事象に投資して、富を得ること(あるいは失うこと)」を意味する。これが面白くなるとしたら、自分の見立ては正しかったという全知めいた優越感を得るためだろう。あとは単純に投資以上の額を手にした時。「万馬券が当たりでもして、生活が楽にならねぇかなあ」という気持ちだ。その気持ちはよく分かるし、ぼくもたまにやったりする。しかし、当然ながらあまりうまくいかないし、「大穴を当てて、生活再建を図ろう」をメインの動機に据えると、その下調べをするのが億劫になってしまう。多分仕事になっちゃうからだと思う。単にキリがないというのもあるが。さらに進めれば、この発想は「なんで当たらないんだよ」という八つ当たりになりかねない。なおさら相性が悪い。そういう気持ちをあんまり抱えていたくない。八百長がないと前提すれば(そう信じているけど)、各々全力を出したはずでしょ。こっちは勝手に賭けているわけで、じゃあ負けても仕方ないんだよな。自分の責任を他者に投げたい気持ちも分からなくないけど、それってやっぱり自分で処理するしかないんすよね。うおお当たってほしい!

ということで、馬券を買うとしたら、基本的にはそのウマを応援しているからに由来する。ここの順番が重要で、(配当を除いた)色んな理由から勝ってほしいという理由が先行しなければならない――とぼくは自分に条件をつけている。そういうウマが三頭いたら三連複とかも視野に入ってくるが、基本的には応援チケットか単勝だ。つまり予想をしていないということになる。ぼくのこれは予想ではなくて、「このウマの勝つところが見たい」「このウマが勝ってくれたら、今日から明日以降もがんばれる気がする」という自分本位な、けれどもそれ単体にはお金の絡まない理由で持って購入する。なので基本的には百円しか賭けないことにしている。

馬券を握りしめた理由で、実況中継を聞いたり中継動画を見ているときの息のつまるような時間は何にも変えがたい。今どこにいる、そこから抜け出せるのか、頼む届いてくれ、あるいはそのまま行け、と願いながら過ごす数分間。普段、何かに対して強く願うなんてことしないですからね。現実はただ起こるもので、ぼくの意志はあんまり届かないという無気力な環境にいるので……。そんなこと言ったら、あとでレース動画を見直すときもそうじゃないか、と言われれば、そうなんですけど、リアルタイムで見聞きしているときだけは、決定論的な厭世感から解き放たれる気がするんだよな。

血統で買う

物語性を求めて買うことになる。どこのお家の子で、どれだけ歴史のある子なのか。これはそのウマの背景にある物語だ。この血が世界を(大抵は今とこれからの日本に限定されちゃうけど)アッと言わせているところを見たい、という路線。

過去のレースから買う

戦場で買うことになる。この場合、場所(レース場)に紐づいた選び方。このレースは、何年のなんというレースの再現だというような路線。聖地巡礼に似ていると思う。「ここってあの勝負が起きた場所なんだよな」。似たような参加者が揃うことはないだろうから、個々の馬の得意不得意を見ていく。今は距離と馬場状態しか見れていないけれど、そのうちレース場の形、回り方、上り坂下り坂なども見られるようになりたい。

実際に当たるのか

当たることもあるし、当たらないこともある、というつまらないオチになる。負けたレースについても手元に残っているが、勝ったレースについてはほとんど手元に残っている。1倍台で返ってくるときはそのまま手元に残しておくこともある。しおりにちょうどいい材質なので。でもまあ、ここはあんまり当たる・当たらないを真剣に考えているわけではないし、気にしていない部分でもある。

一番デカかったのは、2021年凱旋門賞のトルカータータッソ。
確か、あの時の凱旋門賞はドイツからの出走がこの一頭だけで、ドイツに留学し帰国後はフランス語も勉強しはじめた身空としては親近感を覚えたのだった。孤軍奮闘しているように見える彼がもし活躍してくれたのなら、ぼくだってフランスに渡ってやろうじゃないかというようなことを思ったのを覚えている。事前に調べたときは、同じ距離で荒れた馬場でも勝っているということだったので、これは行けるんじゃないかと思ったのも手伝った。場所と身勝手なストーリー付けの結果が、世界的なビッグレースでの勝利ということで、かなり盛り上がったことは今でも新しい。今年は3着だったけど、やっぱ力のある馬だったと思う。それも勇気をもらえる事実だ。

*1:学習能力があって、それを元に行動を変えていく存在はみんな病み得るんだと思う。人間の場合は、余計にも口がついていて、言語を弄することができてしまい、実は大したことのできないことでも悲劇めいて表現することができてしまうので、事態が長文になってしまうのだ。……行動心理学の試みは、この点からすると中々良いアイディアだったと思う。行動に現れたことだけが心であるみたいな発想――ただし、そのためにはあの手この手を尽くしていたわけだが――行動に現れないどころか非行動としての無気力みたいなのも想定するから、面倒なことになるんだよな。自認可能な範囲からも心が見えなければ楽だろうに

*2:もちろん、彼らの生産育成には色んな人々が関わっているし、背景もさまざまだ。けれども果たして、競走馬はそういうことがわかっているのだろうか。わかっていたとしても、結果に結びつくわけはない。誰かは勝ち、誰かは負ける。しかし彼らはそのことを気に病むのだろうか。

*3:もっとも、このアクセントにも魅力があるし、調べるとかなり面白い。香辛料の歴史を調べるのも構造は似ている