Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

無職のとある月曜日

はじめに

この記事はもともとiOS版のアプリ、「はてなブログ」を用いて書かれた。直感的に操作できるというメリットはあるが、アプリ上またはブラウザ上で確認すると趣味に合わない部分も見つかってくる。たとえば、行間など。実際、ブラウザで確認したところ、編集モードが「見たまま」になっている。「思い通り」ではない。

大した内容ではないので放置しても良いのだが、なんとなく気になった。ちなみに、この段落はHTML編集で書いている。

以下本文

二重風景

 それでも朝の6時には起きられているのだから、大したもんである。しかも苦労した形跡はない。いつの間にか体を起こして、布団から冷えた室内に現れている。各種ソシャゲもログインされている。ぼくは起きているらしい。

 ほとんど毎朝、コーヒーを淹れる。年代物の、中の配管が動脈硬化でも起こしてるんじゃないかってコーヒーマシンが、ゴボゴボと血を吐くように駆動する*1。暖房も轟々と唸っているので、朝から随分とやかましい。そんな19世紀英国みたいな世界観の中で、コーヒーを待つ。

 冬になると一人暮らしだって感じがしなくなる――とするほど、機械に感情移入はしない。でも部屋が狭く感じるのも本当だった。音は空気中を伝わる疎密であり、それが混ざれば充分な存在感を構成する。誰かが通り過ぎたとき、目を瞑っていても分かるのは、多分、空気の流れがあるからだと思う。これを気配と呼ぶなら、「一人暮らし」の概念すらも疑う余地があるかもしれない。考えるとしたら、この路線だった。

 まだ回らない、あるいはとうに行き詰まった脳でそういうことを考えながら、逃げるように、部屋の隅、換気扇の下に腰を下ろす。煙草に火をつける。別に美味くもなんともないし、当然パッと目が覚めるわけでもない。虚無を吸って、脳とか肺を虐めているだけだ。肉体を痛めつけることによって、自分をここまで追い込んだ社会とか世界とやらに反抗する算段――という考えは、やはりない。そんな回路が備わっているなら、とっくにしでかしている。

 そうこうしている内に、コーヒーが完成する。一口つけて、「やっぱあんまうまくないな」と納得する。あるいは、何も思わない。もうここまできたら、コーヒーなどという名前も大袈裟だ。「黒くて温かい飲み物」と改称するがよろしい。原因は、「スーパーで一番安い豆」というよりも、コーヒーメイカー自体にある気がする。多分、コーヒー本来の美味しさが、菅のどこかで濾過されているのだ。

 7時頃になるとアラームが鳴るので、朝食を摂る。これは多少前後する。シリアルを食べるか、完全栄養パンをスープにつけたりする。ポタージュとチョコフレーバーのハーモニー。あまり褒められた味はしない。筋の分からない夢みたいな味だ。そういう朝が大半を占める。間違っても、白米、焼き魚、味噌汁、漬物――みたいな整った朝食は期待できない。代案として、友人にもらったカップ麺。スープはほとんど飲む。腎臓がんばえ。

 7時半。シャワーを浴びる時間だ。10分から20分あれば身支度は整う。無理せず働くならこの時間帯だろうな、とこれもアラームをセットしてある。守られた試しはない。

 人間、ひとりではどこまでも堕落することができてしまう。身支度というふつうのことすら欠落するとは思わなかった。潤滑に回そうにも、暖房台が恐ろしくてとてもとてもである。ガス代の高騰を挙げるまでもなく、毎年思っていたことではあるのだ。

 ぼくひとりが我慢すれば、諸事情は穏便に進行する。その一形態としての身支度の放棄でもあった。もちろん、ものには限度というものがあって、ソーシャルな場に出る時、あるいはそれが確定している場合は、数日前から準備する。大体、風呂に一二時間くらい浸かってからでないと、シャワーを浴びる意欲が出ないこともザラだ。どうしてこうなっちゃったんだろうね。


自問自答を繰り返している割に、因果関係は明らかだったりする。仕事を失ったからだ*2。そのため、社交的な機会が消失した。継続的に困る人間は、ぼく以上に存在しない。(何度目かの)失職当初は、例のごとく茫然自失状態だった。一応、その日の物資を書いに毎日出かけはしているのだが、それはソーシャルとは言わない。

無職である

 とはいえ、そろそろこの生活にも飽きてきた。

 働かなくてもどうにかできてるので、切羽詰まってはいない。*3

 やりたいことがあるのだ。小説を書くこと、面白いと感じた小説の分析なり研究と報告をすること、あとなんか急に増えた楽器について、思い出したり覚えたりすること。そのための資料を買いに行くこと。

 一日の、一週間の計画と目標を立て、実行できるようになりたいなと思っている。すでに充分休んだので、そろそろ復帰に向けたトレーニングといきたい。

 知的生産には確約された生産量というのがないからむずかしいとは思うんだけど、それにしたって「今日はこれの日だ」とか「あの作業は骨が折れるから、昼はしっかり食べないとな」みたいな感覚、おれにも欲しい。自分のやりたいことにポジティブに取り組む上でのストラテジー、と称すれば格好もつく。憧れちゃう。

 そういうのを指して、習慣が人を作ると言うのであれば、かなり信ずるに値するだろう。日々の惰性がおまえの本性なんだよこの穀潰しと言われるよりは明確にマシだ。"You are what you eat."と似たようなカタチなのに、調理法で印象がかなり異なる。

 

 ところで、ぼくはこの"You are what you eat."問題については、少し意見があるので、習慣が人を作るとか惰性穀潰しって表現には、一時停止する派閥にいる。

 まずは、食べるというアクションを考えていかなければならないだろうからだ。主体があり、客体があるーーというのは、理念的には了解可能性(分かり味ty)が高いんだけど、現実的には要検討だ。

 幸い、人間には口があるので、口にする=食べるじゃないかと言われればそうなんだけど、問題は、毒を食ったり、異物を齧ったりってことがままあるって点である。消化できなかったり、アレルギーが出たり、拒絶反応が出たり……という何らかの反応が起こるとき、それは「食べる」ではなかったのだ、ということになる。

 料理という形として供されるから、食べるが成立するという見方もできる。調理する者への信頼がここにはあるのだが、自炊なんかを思い浮かべてもらえばわかる通り、これもあんまりアテにならない。

 

 ここら辺で念頭に置いているのは、原始生命についてのベルクソンの考え方だ(たしか『創造的進化』)。※細かい内容は忘れた。あとで確認しとくように。

 つまり、はたして単に包摂するというアクションとか、融合というものと、食べるはどう区別すべきかという問題である。

 

 日常に視点を移すと、仮に「習慣が人を作る」と言ってみた時の「習慣」とは、はたしてどこまで独立したイベントなのだろうか。朝決まった時間に起きることと、朝食を取ることでは明確に異なる。それぞれは「習慣」にカウントしても良かろう。では、この間に挟まるまどろみとかダラけといったものは?

 慣習的には、まどろみとかダラけといったものは、習慣に計上されない(しかし、マインドフルネス・ブームの発明はここにある。要するに、今まで軽視されてたり、蔑視されていたかもしれない「なにもしていない時間」を名づけて売り出したのだ)。

 言わずもがな、日常の本性は連続性である。離散的ではないし、そうあろうとしても心臓も時間も止まらない。

 こういう立場からすると、「習慣」とはフォーカスであることが分かる。ある特定のアクションに対して、焦点を当ててイベント化するのだ。クリスマスみたいなものである。12月23日と12月26日の間にあるだけなのに、それを祭り上げるようなものだ。


ダークマター曰く

 だからといって、そういうクリスマス化に対して非難するつもりはない。強いて言えば、たまには連続性を思い出してください、みたいなものがあるかもしれないが、まあこれは意見にしては薄い。

 何かを指摘するとしたら、そういうフォーカスの当て方にはそのひとの価値観が(社会通念的であれ)反映されるということだ。ここに根源的な善悪はない、ということは声を大にして言ってもいいかもしれないが。

 そういう意味で、マッド・ハッターが「なんでもない日バンザイ」みたいに騒いでいたのは、きっと正しい。イベント化されなかった、そもそもそんな意識にも上がらない時間というものは、もう少し評価されてもよかろう。

 なぜなら、人生とやらの8割はそういった時間で構成されているはずなので。

 

 さて、やりたいことからやるべきことに変わったものを押し除けて、ぼくは日本酒の紙パックを開けている。ストローは失くしたから、ハサミでカドを切って、そのまま飲んでいる。コーヒーは手付かずだ。次はワインを片付けようと思う。

「そうだ、今日を断捨離の日と称して、まずはお酒を片付けよう」

 

 などと、イベント化を試みるまでもなく、ぼくは酔い続けるのであった。

感想

行間の狭さが気に入らないことに端を発したが、それを修正する道中HTMLについての入門的な記事を見かけたこともあって、今この記事を書き直している。具体的には、タグづけをやりながら、「ついでだし」と文章を加筆修正している。どうせ意味のない内容で、小説を書きたい気持ちもあるのなら、一緒に叶えちゃおって趣旨だ。実現可能性については、例が多すぎるので論じない。

うしろにいくほど文章がスカスカなのは、途中で修正に疲れちゃったから。思考の筋が見えにくいものは修正……ていうかこれもう剪定だよ。盆栽やってたじいちゃんを思い出したな、そんなことしてたひといなかったけど。

今日の発見

12月12日(月)追記

「朝に書いたものを、時間をあけてリライトする」っていうのは、良い運動になるかもしれないなと感じた。そもそも、大きな括りとしての文学の本質はこのフォーカス作用にある*4。「惰性で過ごしている日常的シーンを言語化する」なんて簡単じゃーんと思っていたんだけど、それを映えるようにできるかってのは、技術が必要とされる項目なんじゃないか。再構成の手腕、これはほしいものですね。何に焦点を当てて、あるいは何をぼやけ側に置くのかを取捨選択しなければならない。全部書きたいけど、そうすると輪郭が分からなくなるんだよな、とは上で展開された理屈によります。

日常的シーンと議論めいた価値観の展開については、別に混ざったままでも良いと思うし、「それらは個々別々のものであり、繋がるとすればただ行動によってのみである」みたいな割り切り方もしていない。ハッシュタグが縦に並んでいるのは好みじゃないが、ジャンルは不確定でも良いらしいし*5。ただ、これだと現状「別々の味がする」って状態だと思うので、そこは今後次第。

以下、脚注

という名のフレームアウトされた連想集。

*1:一度、脱カフェインを志して、機械の洗浄を試したことがある。水だけ循環させるやつだ。コーヒー豆を入れてないのに黒い水が出た。脱カフェイン・チャレンジに失敗した後もそのまま使っている。

*2:ここにも語るべき事情はある

*3:不確定な人間関係から離れ、自分を見つめ直す機会ができたのもよい。見つめ直しすぎて、もはや手付かずの自己なんてないんじゃないかと思う。いっそ、この内観ってやつで、恣意的に自己を再構成してきたまである。

*4:「大きな括りとしての文学」、ほとんど何も言っていない点に注意してほしい。

*5:伝聞系。そうあってほしいと思うので、自分の中に実践的な理論を作る予定。「ジャンル」って考え甲斐あると思うんですよ。で、考えた末の自分なりの認識ってのはほしい。それあった方が動きやすいので。