Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

脱SNSしようかな

Twitter、いろんな情報が流れてくるので、活字中毒者としては悪くないんだけど、なんか疲れた。いや、この疲れはTwitterのせいじゃない。自分自身にだ。自分に辟易している。

 

落ち込んだときや酔ったときなど、波に揉まれている精神状態のときに顕著なんだけど、己の人間性の悪いところが出ちゃうんだよな。振り返ると「自分のこういうところ、嫌だな、変えたいな」って部分が出てしまう気がする。それともこの発想もまた、視野狭窄なものの見方なのか。杞憂で済めばいいんだけど。

 

ブログはSNSじゃないんですか、という意見もおれの中にはある。本来はたぶんそうだと思うが、今はまだここにソーシャルな繋がりを求めてはいない。ネットワークもまだ構築できていないし、個人的にはサービスだけが残っている。

 

ソーシャルなものもネットワークも、ソーシャルなネットワークも求めることができないなら(これは個人的な限界とか、期待は叶わないだろうという悲観とか諦念)、そもそも記事を書く意味とは? ともなる。

 

たぶん、心の深いところには、小さな「読んでほしい」って気持ちがあるんだと思う。しかし、この「読んでほしい」もここ数日はかなり狭い。他者によるなんらかの応答を求めているんだと思う。しかし同時に、いざそれが来たときには、ありがとうごめんなさいしちゃうおそれがある。これも杞憂で済めばいい。

 

参考までに、普段、心穏やかなときにも、小さな「読んでほしい」はある。ちょっと前までに比べて、かなり小さくなった。けれども、それは他者の応答を希求するほどではなくて、どちらかというと「読まれるかもしれない」ってのを想定して自分の考えを作るという、縛りプレイみたいなものだ。了解可能な文章の構築訓練。この路線の先にはソーシャルがあると信じたい。ネットワークもあるかもしれない。

 

でもなかなかTwitterアプリを開かないってのも難しいんだよな。ついつい癖で開いてしまう。すぐ閉じるようにしてるけど。

 

常日頃から脳直Twitterをやっており、そのスタイルももう10年以上経っている。頭の中の考えを言語化することそれ自体にはきっと意味がある。しかし開きっぱなしの蛇口ってのもどうなんだろうか。節操がないんじゃないかと今更ながらに思った。遅すぎる。迷惑もかけてきたんだろうな。関係者各位、申し訳ありません。

 

自分のアカウントの良いところを頑張って探そうとすれば、たまにある理屈っぽい連投が挙げられる。ぼくが好きなのは、テーマはなんでもいいけど、AでもないBでもないCはどうかっていう理屈の動きであって、それは時々実践できてたと思う。これにしてもソーシャルに向かず、ネットワークとしては閉じている。

 

最近のマイブーム的な落ち込み方として、「おれって変に理屈っぽいだけで、それってダサいのでは?」というのがある。補足すると、理屈だけいたずらに立てて、いささかも実践が伴っていない。口だけなのだ。

 

もちろん、理論理屈はおしなべて大事だし、自分でもできる範囲で実践してこうとは思っている。でも今のままではダメだ。今この瞬間だけを切り取れば、何にも持っていない。

 

マスター・キートンみたいにその場その場で作ることはできるかもしれないが、ほしいのはインフラだ。そこを拠点にできるような、文明だったり根拠だったりする。「実際にやってみた」式の成果が必要だ。

 

日々何に打ち込むのか、ゴールはどこか、そういうのをちゃんと見据えたい。手当たり次第やってみて、予期せぬ化学反応とかシンクロニシティを待つってのも続けていくつもりだけど、いずれにせよ活動量を増やした方がいいんじゃないか。時間って足りないんじゃないか?

 

この方角に思考を置くなら、Twitterに放流するのではなく、ちゃんと腰を据えてまとめて考えてみてはという意見が浮かぶ。

 

かわいい動物や二次元の画像が分類されず流れてくるのも魅力的なんだけどな。

 

まあ長くは続かないだろう態度の話です。結論はない。