書きたいものと書いてしまうもの
先日、友人に言われたのは、「織倉さんには純文学を書いてみてほしい」とのことだ。「もっと雰囲気を楽しむものが読みたいんだよ」。
三人称で書くことの慣れ
織倉未然が現在書いている作品『シリウス・ウォーカー』(仮題)は、ほとんど初めて三人称で語られている。内容としては、またしても現代ファンタジーだ。あるいはSFも含む。興味関心の主たるところが、やはり「当たり前の検討」(センス・オブ・ワンダーとも言いそう)とか「異なった角度からの解釈」だったりする。そこに新規性はひとまず必要なくて、自分の手元で考えて、形を整えることに楽しさを見出している。この"形を整える"にしても、市場に出せるレベルのものを求めているわけではなく、最低限の機能を果たせば良い。こういった志の低さがあるから、すでにある作品との被りとかもあんまり気にしない。これはもう悪癖と言って良い気がするし、「小説で売れるしかねぇ」とか思う割には適当じゃないか。
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n6936ic/
三人称という慣れない形式で書くことで、このDIY精神が暴発することを防ぐことができる。今のところ、ウェイトはもちろん「三人称」ではなく「慣れない形式」にある。この不慣れが影響して、自分の普段の考え方が地の文に滲み出す率が下げることができる。ていうか下がる。
ウェイト付けを「慣れない形式」に寄せたのには、理由がある。三人称形式の本質を見ようとすれば、「上からの視点で書くことができるので、作者の思考の癖を抑制して、偏らずに書くことができる」というテーゼを提案することはできる。しかし、これには反論、反証も多い。最近で言えば、『涼宮ハルヒの直観』に収録された作品で、キョンと古泉くんが語っていた内容が参考になると思う。要点――作者は読者を欺くことができるし、三人称形式を採用したからと言って、作者の思考の癖を抑制して偏らずに書くことが正しいとは限らないという点だ。
このあたりをもう少し掘り下げよう。一人称、二人称、三人称のいずれの形式においても、もちろん得意不得意はある。しかし、不得意は不可能を意味しない。
では、語りの人称選択はどのようになされるのか。まず習熟度の問題があると思う。慣れている形式で書いた方がやりやすいし、考えやすい。ということは、慣れてしまいさえすれば、その人称が苦手とされる語り方も可能になるということになる。書きましょう。
議論
次元の話をする。一人称は一次元で、二人称は二次元で、三人称は三次元としてみよう。こう安直に考えると、一人称より三人称の方が見え方、文章の機動性が増すので、より語れる事柄が多くなる。それって「多くなる」って考えていいのか? また、こう考えると四人称というものも考えたくなるし、やがてはn人称というのも考えてみたい。
できる範囲で真面目に考えてみると、三人称の「三」は「もともと接点を持たない第三者の導入」という意味合いであり、俗に「神の視点」とか言われる際に働いている空間化はこういった意味合いである。もちろん、反証としては、登場人物が作品をコントロールしているはずの作者本人であるものもあげられるから、このあたりに厳密性も新規性もない。神だからと言って、ひとの世界に混じってはならないってわけでもないのだ。実際、うわあこのひと神〜ってなるひともフツーの人だったりする。
ところで、一人称の無力化を企図したのが、『わたしリボルバー』という作品だった。あれは登場人物のほとんどが「わたし」という作品なのだが、そうすることによって「わたし」という一人称代名詞を破壊しようと目論んでいた。そこにアイデンティティの迷走を表現しようとしていたし、そうすることで当時の混乱を発散、記録しようとしたのだが、上手くいったのだろうか。
書きたいものと書いてしまうもの
織倉未然の作品は、必ずと言っていいほど、ファンタジー要素が含まれる。これはなんでかっていうと、SFが大好きなことと、そういうタームを再解釈したいって欲があるからだ。
『シリウス・ウォーカー』(仮題)においては、「引退した魔法少女」がこのタームに当たる。本来であれば、そういった用語にはもっと期待を寄せるべきだと感じているし、「どうして数あるモチーフの中からそれを選んだのか」って質問に答えられるようにしておくべきだとも思う。このあたりはこだわりを発揮したいポイントであり、実際には全く無頓着なポイントでもある。一応の言い訳としては、「宇宙に憧れる理由は分からないけれど、宇宙は好き」って感覚があるのだが、これも育てていない。
自分でもどうかと思うのは、魔法少女について深く考えているわけでもないという点だ。特殊性を見出していない。雑に扱っているわけである。それってどうなんでしょうね。退役軍人でも良かったんじゃないか? 交換可能な要素として、仮においているだけだ。こういうのをマクガフィンと言ってみることもできる。マクガフィンに謝った方がいいかもしれない。
作品としては、「小説なんだから、人間関係が書ければ良いでしょ」って見方もできる。しかし、多種多様な人間関係を経験しているとは言い難い身で、あるいは死んだ感性でもって、そんなことが可能なのだろうか。代案として、人間というものについて洞察した結果を書き出すというのもあげられるが、そういうこともサボって久しい。なんなら、鬼滅の刃とかウマ娘についても「面白ぇ〜」と口を開けて楽しんでいただけで、彼ら彼女らの立場に身を置いて、彼ら彼女らの心的方法に基づいてエミュレートするってことをしてこなかった。
ぼくには、ひとの気持ちが分からない。
というか、努めてそれを断ってきたのかもしれない。彼ら彼女らには他者でいてもらわなければ困る。自分の中に他者を導入し、培養して、酔った気になるのは憚られる。自他境界を潔癖に保とうという殊勝な心がけがあるわけではない。事実、どのように動くか、こう動きそうだな、という妄想はする。傾向の把握と悪魔合体、あるいは単純に「こう言ってほしい」という自分勝手な願望を元手に、二次創作を試みたりもする。
最近はないが、ひとの悩みを聞き、そのひと独自の発想、こだわりポイントを見つけて、そこに乗っかるということはしたことがある。「このひとは必ず右手でドアノブを開ける」みたいなもので、それは人間を見ていることになるだろうか。所作は氷山の一角であり、そのひとのコアではないと思う。
そもそも小説が書けているのか
さて、以上のように考えると(考えてない)、およそ自分の認める小説を書けていないということになるし、そう簡単には書けそうにないという結論に落ち着く。そこであえて、「小説と言ってしまえば、小説である」という方法論を使うことはできる。去年か一昨年からこちら、ずっとそういうことをしている。あるいはできていない。この意見に異議はない。小説という形式は実に多彩で、どんなやり方も取り込むことのできる懐の広さがあるからだ。ぼくひとりなんかに、小説の新たな地平が開拓できるとは思わない。
では、どうして繰り返しこういった話をしてしまうのか。たぶん、自分のやっていることにフィットする言葉がほしいからだと思う。「小説」では広すぎる。文学活動であることは確信をもって肯定できるが、それは運動だからだ。「小説」は静的な表現であり、ワーキングブーツとかスニーカーをまとめて「靴」というのに等しい。「服は着ている」では居心地が悪い。何を着ているんだ?
友人との会話
「織倉さんは、純文学は書かないの?」「読まれないからねえ」「そうなんだ?」「キャラものの方が読まれるんだよ」ぼくはそう答えたが、一般論だった。ぼくが一般論と呼んで、しかしそうとは信じていないものである。現象としての実在は認めるが、ぼくはそれを自分には適応しない。あまりに茫として正体がしれないからだ。
彼の言いたかったことは分かる。ぼくらは、村上春樹の買うことがステータスになるような部分に惹かれたわけでもなければ、ミーム化するようなフレーズに飛びついたわけでもない。ぼくらが共鳴したのは、無軌道で手探りな、擦れてしまったような雰囲気にこそあった。語っている内容はなんでも良かったし、終わらなくても良かった。連続性は求めていなかった。本の適当なところを開いても、最低限保証されている成分が検知できれば良かった。
小説で人生が変わった、などというドラマは求めていない。そんなことは一切期待していない。人生が変わったとすれば、その本について語り合うことのできる友人を得たことの方にこそある。彼がいなければ、ぼくのドイツ時代はより悲惨なものになっただろうし、おそらくは発狂していただろう。いや事実つねに発狂していたようなものだったが、より深刻なことになっていたに違いない。
ぼくらはドストエフスキーの話もした。けれども、ドストエフスキーのミッションには賛同も批難もしなかった。それはただ書かれたものとして存在していた。我々は『罪と罰』の話をした。けれども、老婆を殺しはしなかった。必要がなかったし、魅力も感じなかった。我々はラスコーリニコフの話をした。けれども、彼は我々にとってヒーローにも旗手にもならなかった。我々はどこにもいかなかった。
小説は、沈黙のBGMのようなものだった。
ぼくは彼の言っていることをはぐらかしていたし、自分の気持ちも偽った。彼はそれを指摘しなかったが、おそらく見透かしていたと思う。
「必ずファンタジー要素を含むよね」と彼は言った。「SF畑の人間だからねえ。そういうのを解釈し直したいんだよ」とぼくは答えた。これ自体は嘘ではない。
"キャラものの方が読まれる"――だからなんだと言うのか。ぼくは多くのひとに読まれることをそれほど期待していない。しないことにしている。「純文学はやりたいよ。でもまずは、キャラもののをパッと書けるくらにはなっておきたいんだよね」とぼくは付け足した。言いながら、これは嘘だなと思っていた。純文学とキャラものを分けて考えることこそ、自分らしからぬ発想だ。そちらの方こそ安直だ。今話題とされているのは、もっと別のことだった。
キャラクターの魅力は必要か。人生を変えることは必要か。面白さは必要か。それらはぼくが用意すべきものか。すべて否だろう。それは読者が勝手に見い出すもので、今までそのようにしてぼくらは小説を読んできたはずだった。薄い本もあれば、分厚い本もある。そして、文字の密度も作品によって異なる。辛抱した分の見返りがある、という読み方を求めているわけではない。我々が楽しんでいたのは、センテンスでありパラグラフであった。ストーリーではない。内容ではなくて、雰囲気だった。
彼の求めていることは、一体なんだったのだろうか。仕事に忙殺され、家庭も発展していく彼が、友人たるぼくを言い訳に逃げ出してきたのはなぜだったのだろう。たとえば、あの悲惨なドイツ時代への懐古主義を導入してみる。ビールとタバコに辛うじて生を見出したような歳月――それが保存されているようなぼくが、あのときのように生きることが求められていたのではなかっただろうか。あのときの擦れた寂しさのリプレイ、ある種トラウマティックな、けれども陶酔させるに十分な経験の再現。共に生き残ったぼくが、死に呼ばれながら、それでも無様に生きること。
彼はぼくを救助に来てくれた。そう思っていたが、ぼくはもっとちゃんと彼に応答することもできたんじゃないか?
ファンタジー要素を排除した、彼の言う"純文学"をやること。それは彼に対する返礼になるかもしれない。
しかし、ファンタジー要素を外して、現実をそのまま書いてしまうことは、ぼくにとって、少しおそろしい。