Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

なぜ去年の自分は筆を折ったんだろう。

2018年の09月07日。僕は筆を折ったらしい。Pixivと「小説家になろう」から退会した。それぞれ思い出があったはずなのに。

今日は一年前の投稿を振り返る話です。

現実で一定以上のストレスがかかると、それまで作ってきたものを大部分消去しにかかってしまう。 自傷行為的だし、ある意味で死を選んでいる。 自己分析によると、自分自身の存在に耐えきれなくなったため、軽くなろうとしての行為。

またしても筆を折った - orikuramizenのブログ

こういう傾向は確かに前からあった。何度かTwitterの情報も黒歴史クリーナーにかけたこともあるし。でも、どうしてこういうことをするんだろう。これがわからない。

このことを「成長したから」と結論づけるのはちょっと危険だと思う。去年から今に至るまで何が変わったのか? その答えとなるものは、果たして永続的な属性を持つだろうか。その答えが十分血肉になっていて、態度として身についているなら、まだいくらか安心できるかもしれない。しかし、もしその答えが永続的なものではないならば、僕は同じ事態に陥るリスクを心に留めておく必要がある。ひょっとすると、あらかじめ策を講じておく必要だってあるかもしれない。

当時の自分が書いた文章が示しているところ、提示している風景には、今の僕からしても共感できる部分がある。用語の選び方、イメージの連鎖のさせ方はあまり変わっていない気もする。

なにより損なっているのは、信頼だ。 上にも書いてあるんだけど、自分への信頼、読者あるいはそうなったかもしれないひと(つまり可能性)への裏切り、信用の喪失……つまり今後どの面下げて自信を持って行けばいいのか、他者と関係を構築していけば良いのか、担保として何を提示できるのか。

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自分の好きな小説を探していこう、という方向に進めそうなところで、上のような考え方をしている。信頼の経済を考えようとしていたのかもしれない。あとの方を読めばわかるんだけど、小説を書くことに楽しさを感じている一方で、現実的な生活の営み辛さから焦っていたようだ。

この頃はまだ今の職場で働きはじめていなかった。どうにか生活していけるという水準にすら満たなかった時期で、失業保険の期間も終わりにさしかかっていたはずだから、それで焦っていたのかもしれない。悩む時間が多かった。時間はたくさんあったが、肉体的な理由から、決して持て余してはいなかった。とにかく暑かったし、それで毎日朦朧としていた記憶がある。

勤務時間はアイデンティティに悩まなくて済むので、それがこの地点からの脱却を手伝ったと言うことはできる。でもこの説明だけでは不十分だ。今の仕事にも色々思うところはあるわけで、やがては辞める時が来るだろう。そしてその時にまた、同じように落ち込む可能性があるということになる。それはかなりのリスクだ。

ここにあるのは、もう廃墟になった実験場だ。亡霊だけが住み着く、陰気で、日が差さず、余計に脆くなってしまったもう価値のない場所だ。

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これはなかなかカタストロフなイメージで、この再来は恐ろしい。絶対に回避したい。翻って、今の自分はと考えてみると、代わりにあるものはない。ひょっとしたら廃墟は継続中かもしれない。そこを元あった状態に戻すこと、廃墟を遺跡に転換することは可能だろうか。

この路線で考えると、最近まで僕のやっていたプロローグの乱発というのは一つ意義のあることだともいえる。それはこの廃墟的人格から発生した、草木のようなものだ。まずは芽が出たというところだけれど。そして、そう捉えるのなら、とりあえず種類を増やして、あとは当然育てていくことが重要になってくると思う。これはひょっとするとプレッシャーになるかもしれないけど、一方で「小説を書くこと」それ自体に新しい意義が追加されたことになる。庭を作ること、命を育むこと。

ちょっと怪しい話になってきたかもしれない。物語とは一体なんだろうか。それは自然発生的なものだが、そこには自分の生が外部化されている。出力された文字群は、インクの染みという点で一義的なものなんだけど、そこから読み取られるもの(ベルクソンなら「翻訳される」とか言うかもしれない)は、人それぞれだ。そういう多義性、開放系が物語というものの面白いところで、書いた当の本人からしても、読む都度意味は 微妙に変わる。

ではなぜ文章を書いているのかと自問してみれば、それは日が昇ったり暮れたりするようなものだ、との答えを得る。波が打ったり返ったりするようなものだ。 そういう寄せては返すものは担保にならないだろう。信頼できるものでもないだろう。砂上の楼閣にひとは住めないのだから。

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,この日、僕は上のように文章を締めくくった。この頃の僕はそれほど文章を書いていたのだっけ。今はどうだろう。波の満ち引きは間隔を疎にしつつある。これは僕が打ち寄せるものと向き合う時間を確保していないからだ。海をあまり見に行っていない。

こうなったのには、まず労働の存在がある。その月、あるいは次の月を生きるためにはお金が必要で、その対価としての時給労働は、悩む時間を潰すのに役立つ。でもこれは物質的な理屈に過ぎず、まだ廃墟と人間社会との間には大きな隔たりがあるな、と思う。肉体の方は社会に参画しているんだけど、そこから精神に流入してくるものがあまりない。アイデンティティを考える時間がないだけで、そこに横たわる問題を解消するには至っていない。僕にはある種の文明が必要なのだが、そのためには、自分の欲望と仕事が些細なりとも重なって欲しいと思う。

ただしこの廃墟が自己の真なる姿だと仮定して、その前提たる過去の文明がそこにあったのかと問えば、おそらく否定が返ってくる。そこに廃墟を求めることは、火星に人の顔を見るような、シュミラクルな事態かもしれない。人の顔を知っているから、それが顔に見えるのであって、そもそも火星に人がいたのだろうか。

それでは僕はここに何を求めているのだろうか。社会的な繋がり? おそらくそれはまだ違う。物質的な生き方と精神的な生き方の合一? まあそれは一つの理想だ。ワーホリとか学問の道に対する憧れは、多分この断面からだと解釈しやすい。心の赴くままに進むことが、生業となるような生き方。最前線でのその姿は、大航海時代とかファンタジー世界、何より僕の愛したSFに持つ憧れと、通底しているものがある。