先週の作曲について(新曲3曲)
先週の新曲は3曲。内、ボーカルありは1曲。
YouTubeをメインに活動していて、サブで気まぐれにニコニコ動画にも投稿しているが、そちらの方が伸びが良い気がする。
作った曲
【オリジナル曲】Under Water(off Vocal)【インスト】
Practice 94。
苦手分野だった付点の概念を取り入れてみた。それから、ボーカル相当に対して、合いの手みたいなやつ。アイカツっぽいフレーズを意識している部分がいくつかある。「off Vocal」と表記しているが、歌詞は考えていない。ていうか、刻み方が歌うのに適していない。
【オリジナル曲】Introduction(off Vocal)
Practice 95.5だったものをPractice 97とした。
実は作曲を素早く終わらせる方法として、Chiptuneっぽい音を3トラック(メロディ、ベース、ドラム)用意して全体像を作る、というのがある。今回は、それを元に深く考えないで作った。冒頭のフレーズを後半で再利用しているのが効いていると思う。
今聞き直してみると、同じフレーズが繰り返されるというのが好みであることに気づく。ただし、いつもは急かされているので、なかなかそれができないんだよな。どうしたものか。
【オリジナル曲】ゆらパレ/feat.初音ミク
Practice 98。
試したこと: イントロの確保。
Garagebandの場合、ミクさんに歌ってもらうためには、Piapro Studio上でノーツを手書きしなきゃならない。五線譜が読めて良かったが、MIDI鍵盤から直接入力できるよう、Cubaseの導入を検討すべきか。
個人的に革命的だったのが、「あなたとわたしならできるでしょ、ね?」という歌詞。こういう自分に基づかない、ともすれば無責任な歌詞が出てきたのは意外だった。この調子で、友人とか仲間との連携とか、人生楽しい気持ちとかも書けるようになると良いのにと思った。
今週はそんな感じ。
以下は週の総括的な日記。読まなくて良い。
音楽にまつわる仮言命法
大体作業開始は昼前、あるいは3時を過ぎてから。それまでずっと病んでいる。「作曲は別に楽しくない」とか言うし、実際ノリノリで作れているわけでもない。前者は歪んだ性格発の妄言だとして、後者はそこそこの課題だ。
どうしてこういうことが起こるのか。素直に楽しめばいいじゃないか、ていうか無理なんてしなくていいじゃないか。好きなときに作れば良い。友人にも言われるし、ぼく自身もそう思う。一応の供述としては、「何にもしていない自分に戻りたくないから」という焦燥感がある。
しかしまあ、一応の分析は済んでいる。どうやら疲れているらしい。体力の少なさに悩まされていたが、実は「少ない」のではなく「無い」。根本的にゼロなのだと気づいた。
つまり、ぼくは作曲とやらを、体力ではなくて、その先の精神力とか気力とかいうやつでやっているらしい。この精神論とやらは、ぼくが最も忌避するやつで、けれども自分でやりがちなことだ。悪癖とも言う。
0-10で作業をしましょう、と考えたとき、ぼくの場合は多分12辺りからスタートしている。じゃあその「12」はあなたの「10」なのでは、とか、「5とか6」なのでは、という異論は正しいが、適切ではない。朝起きたときから限界だからだ。
幸か不幸か、少なくとも間違いなく災いではあることに、ぼくは12からスタートして20くらいまではやれる。もっといける。そういう馬鹿げた実績は枚挙にいとまがないし、できた曲が「悪くないんじゃない?」って思える瞬間もある。
しかし、畢竟、体力が枯渇した時点からのスタートだ。他者の作った曲については自信を持って「カッコいい」「名曲だ」と判断できるが、自分の作品についてはそういかないことの方が多い。
限界とはこういう意味なのだ――自我が残っていない。自我、自己認知、あるいは自信、そういうものは体力があってはじめて機能するものである。簡単に言えば、「元気?」って話。前述の尺度でいえば、0-10スケールの内で機能する。
じゃあ、元気が全くないのがスタンダードな人間が、自分の曲をどう評価するか。不可能だ。だから「外注する」ってのが選択肢に入ってくる。余裕があるひとに任せて、そのひとの言葉を信じること。
具体的には、再生数とか高評価、チャンネル登録だ。正の評価だけであれば、上手く信じることができさえすれば、良いサイクルを回すことができる。褒めれば伸びる。精神力の消耗が相対的に極小になるまで、伸びることができれば実に良い。
もちろん、これは危ない方法でもある。創作というのは実存運動だから、自分の在り方を他者に任せることで、下手すると承認欲求に支配されたり、モチベーションを損なったりする可能性がある。
まあだったら、それは切り離せばいいわけで、この辺のバランス感覚は長い小説経験で最終的に獲得できたから、今のぼくなら多分大丈夫だ。
作曲の別のモチベーション、好奇心に似たものも、他者の評価とは独立していることだし(学習によって負の連関が形成されることもあるが)。
総括すると、やはり「作曲を楽しめている」とは言えない。ぼくからはとてもとても。まず技術が足りておらず、表現できる幅が狭い。そして致命的なことに、「楽しむ」って感覚が死に絶えている。疲れていて、元気がない。いつもない。
「音楽をやっている」とはあまり言いたくない。楽しめていないのだから。
けれども、「音楽をやるなら、音を楽しまなければならない」みたいな仮言命法の目指すところは、「その方が自他ともにノれる曲ができるから」だとも思う。あるいは、ある曲の背景を調べた際に、明るく元気で清廉潔白であれば、気分よく無関心でいられる、というものもあるだろう。
しかし、テクニックがあれば、研究と実践と研鑽があれば、どんなに病んでいてもひとの心を動かすことはできるんじゃないだろうか。ぼくの代わりに誰かが楽しんでくれて、喜んでくれて、1分半から3分の間だけでも、日々のあれこれを忘れてくれるなら、それでどんとはらいじゃないか? それが逆に悲しさだったり切なさだったりしても良い。
そこには、ぼくはいない。曲と他者の心の動きだけがある。そうなれば、ようやく気楽な話になる。