Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

先週の作曲について(新曲2曲)

作曲したもの

Practice 82 - 2023:08:16 0.10

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Practice 83 - 2023:08:18 14.48

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試したこと

五度圏表とディグリーネームを意識したコード作りを試してみた。

一方、好きな曲とかのコードをみてみると、もっと簡単な作りになっていることに気づく。

じゃあおれは何を凝っているんだ。

考えたこと: 他者・社会への呼びかけと内省

そもそも、歌詞も歌唱もない、ジャンルもメッセージもないではどう注目してもらえというのか。注目されることを気にし始めたから終わりな気がしている。終わっている。

この「注目されることを気にする」というのには、一応背景がある。今シーズンの作曲活動は二つの柱からなっていて、一つは「集中できること」、もう一つは「社会に開けていること」だった。「注目されること」は後者に該当する。

今の自分は一体何者なのか、何をしているのか。強迫的な自己紹介、説明責任、いろんな言い方はあるだろうが、とにかくそういう不安感が根底にある。これはいつものことだ。頭の中の社会像に怯えている。「我は誰それであると常に発信しなければならないし、それは認められなければならない」というような。

何かに集中できている間は、こういった責務から解放されている。あるいは、集中していることそれ自体が、他者への(そして自分への)説明となるので、悩むことはない。不安から逃れることができる。

しかしながら、集中することにも体力は使うし、この季節は何もしなくても体力は使うのだ。これでは、集中することすら難しくなってくる。その困難を超克するには、使命感とか義理人情、執念、野望、好奇心などいろんなものが使える。どちらかといえば、精神的な、知的な、大脳新皮質よりのモチベーションだ。

で、これらすら摩耗しているのが先週一週間であり、そろそろ今シーズンも終わりな気がしてきている。弱音の連鎖が止まらない。では作曲を辞めるかと想像してみると、とうとう自分には何も残らなくなってしまうので、それもまた恐ろしい。

いや、もともと自分には何もなく、単に作曲をしていなかった時代に戻るだけなのだが、それは今にしてみると荒涼としていて、苦しいものだった。

「趣味は何ですか?」――何もない。

「お仕事は?」――何もない。

「あなたはどんなひとですか?」――分からない。

生きてて楽しいですか? 楽しくない。けれども、これも今にはじまったことじゃないし、ずっとこんな感じでやってきている。理由も意義も見出せず、達成感も期待できないとして、惰性という言葉すら高尚に思えるような、そういう自動的な行動を続けることだけはできるのだ。

休みが必要だと思う。休み方が分からない。そもそも休めるタイミングなんてないし、隙を見せたら最後、頭の中の社会は大挙して非難してくるだろう。だから走り続けるか、身を隠すか(それも闘いだ)、ゲームから降りるしかない。

おれにも何かがあった瞬間はあった。それは確かだ。しかしそれは刹那の出来事で、踏めば消える足場のようなものだった。ここから先、どう進めば良いのか、まるで見当がつかない。今までもずっとそうだったが、またしてもこうなのか、というのは、堪える。

もう何もしたくない。とても辛い――とは言ってみるが、しかし、これらの言葉について、ぼくは信憑性を見出していない。誰だってそうだろうし、ぼく自身も今まで常にそうだったなら、そこにユニークな価値なんてないからだ。トピックにはなりえない。


先週はそんな感じ。