[メモ]Maniaについての覚書
たとえば、wikipediaなんかでは、躁病とは、
気分が異常に高揚し、夜も眠らずに、支離滅裂な言動を発したり、危険を顧みなくなるような状態になる期間(病相)。
と書かれていたりするんだけど、これって理念的な極限にすぎないんじゃないかと思うんだよね。
もちろん、"躁病の用語は双極I型障害の場合に用い……"とも書いてあり、軽躁病(Hypomania)へのリンクもついているから良いんだけどさ。
まあしかし、自分の精神状態ないし精神状況が学術的にどう理解されるのか、という点は考えるのが面白いので、できればそれほど極限的な例じゃない部分を紹介してある文献とかがないものか。
気分の上下、浮き沈みは誰にでもあるものなはずだが、鬱病という言葉がよくも悪くも一人歩きしてしまって、「普通のひとには関係ないけど起こりうる身近な恐怖」として怪談めいたものになっている部分があるんじゃないだろうか。
「それも個性と割り切ろう」というキャンペーンにしてもあまり気持ちの良いものじゃない。そういう言葉が横断幕に書かれる時点で全ては失敗している。
なぜなら、そういう事態は「それ」と言い切ることができないものであって、書いてみたところで共通理解の成立しない、無効な表現だから。
「個性と割り切る」というのは、個人的な選択であって、呼びかけることのできるものではない。
更に言うなら、「それ」の帯域とか深度がえげつないことになっている可能性もある。多いにある。机の上にポンと置くことのできるスケールじゃなく、もうそれ地下都市だよね、って感じだ。
さて、興味深いのは、躁病はManiaであるという点。マニアとかマニアックと書けばより身近なものに感じられる。
で、この線で行くと面白くなってくるのは、以前僕は鬱状態は過集中状態である、と表現したことと理解が一見逆転して見える点。
Maniaはマニアで偏執なら、それこそ「集中してる」んじゃないの、と捉えられかねない。
一方、病相としては、Maniaはむしろ散逸した状態として叙述されている。
この捻れをどう理解するか。
随分前にドゥルーズ=ガタリの文章を読んだときの僕は、躁-鬱を動的な視点から見ると、躁状態は離散的運動を示すのに対して、鬱病は固定的な運動(というか停止)として捉えることができる、と理解した。ここでポイントになってくるのは、時間的なスケールだ。
ただ、ちょっと疑問なのは「躁状態はそこまで離散的か?」という点。全能感とかもそうなんだけど、これひょっとして、世界を自己に内包してるんじゃないか。ひっくりかえっている。(こういった話は、確かいつかの『現代思想』に書いてあった気がする)
書きたいことと別のことを書いてしまった。あー今躁状態にあるな、と僕は思っている。といっても極限的な状況というわけではなく、ただ落ち着かず、仕事を探すことばかり考えている。働かなければという強迫観念があり、強迫観念から働こうとしている。
つまり考えても仕方のない理由から、焦っていて、それで疲れが取れない、心が休まらないという状態だ。これは苦しいものがある。
おそらく、自然なあり方というのは、「月曜日にならないと何もできないし、週末だし、被災もしているわけだから、休むにこしたことはない」となるべきところ、「働かなきゃいけない、働かなきゃいけない、金がなきゃダメだ、暇でいちゃダメだ」と考えている。
ここで「金が欲しい」とか「暇潰しに」とかの要因で働くとストレート。