Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

2D的な生き方をしてしまっている

近々、仏検を受けることもあって、最近はフランス語の勉強をメインにしている。

とはいえ、1日の時間の大半を寝るか働いているかしているので、そう考えるとフランス語の勉強はメインではない。僕はサブでフランス語を勉強している。しかし僕はこのサブこそメインだと信じている。

今やっている仕事は割に楽しい。何が楽しいかって、集中できることが楽しい。極論を言えば、集中できればなんだって良いところはある。

契約があるから、仕事の終わる時間は決まっている。であれば、毎日の勤労は、時間制限つきのゲームのようなものともいえる。昨日より多くの数を作る、1つ1つの質を上げる、経験値をあげてもっとストレスなく業務に当たることのできるようにする……課題はいくつもあり、日々の成長を感じる。

一方で、「こんな仕事がなんの役に立つんだ」という反語めいた疑問も、常に意識の隅にある。

いや、正直なところ、これは反語的内容だ。

今やっている仕事の需要とか意義とかについては、理解可能だ。なるほど、そういうサービスを求める人間がいるからには、この仕事は必要だろうし、儲かるのだろう。しかし、そういう経営者レベルの議論は、目の前の業務に集中する僕には全く関係のないことで、ついでにいえば、僕の時給にはほとんど影響のないことだ。

が、仕事に集中するのは時給アップのためではなく(そんな希望は持ちようがない)、あくまで暇つぶしを充実させるため、本当はやりたくないことをやらねばならないストレスをいかにして軽減するか、がそのまま生命線になるからだ。

僕としては、日がな小説を書いていたいし、語学の学習を進めたいし……という希望があり、ゆくゆくはこちらで生計を立てたい。立てることができればいいな、と思っている。微かな希望として抱いている。これだけは忘れないようにしたい。

仕事に集中できているときは、仕事と人生が統合されている。しかしながら、業務終了後我に帰るとき、職場を後にして自分の仕事を振り返るとき、事態は乖離する。どう考えても、五年先、十年先に、今の仕事を続けている気がしない。それどころか、今まで職場にいた自分が信じられなくなりもする。  

ただし、とにもかくにも生きるためには、なんでもいいから働かなければならない――そういう気持ちでいる。

よく、「君の言動は矛盾している」と言われることがある。
三次元的に考えれば、僕のなした行動Aと言明Bが繋がっていることをわかってもらえるかもしれない。でもそうする努力をほとんど放棄してしまっている。これはよくない。でも今住んでいるところで、今の働き方で、今の日々の過ごし方では2D的な在り方を示していくしかないと、どこかで諦めている。ここは四角い世界で、立体的な世界ではない。

この「2D的な在り方を示す」というのと、かねてよりのタームである「資本主義的神話に迎合する」というのは、この頭の中では近いかもしれない。 そのうちまとめる。