Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

なんのために働いているんだ俺は

なんのために働いているのかと言えば、まずは「親に対する防御として」というのが上げられる。それはスコールのように突然やってくるもので、僕にはいつ来るか予想ができない。来た時には最後だ。またしても僕の精神は壊滅することになる。日々少しずつ自分の家を頑丈にしていく必要がある。

どうにも僕にとって、父親というのは社会を三角錐と見ればその先端のようなものらしい。彼は一人で社会の代理人としての権能を発揮し、社会の重みを背景に背負って現れる。接触面積が小さければ小さいほど負荷が大きくなるように、彼が顕現するときというのは、とてつもない圧力でもって、決定的な一撃を僕に与える。

一方で、僕が社会に接しているとき――人混みの中に紛れることができたなら、それは接するというよりも、文字通り溶け込んでいるということになるのだが――僕はそれほどの圧力を感じない。そのとき僕は誰でもない状態にあり、個は拡散し、どのような圧力も感じることはない。まあこれも毎回うまくいくものではなく、ふとした瞬間に、クレバスが口を開けて、僕は社会から放逐されることもある。これも1つのスコール的事象とはいえ、最近の僕はあまりこういう不幸にかち当たることも減ってきている。

働くということは、エクスキューズを積み重ねて、ある種の壁を作ることでもある。
自分を背景化するために僕は働いている。個とか我がそれほど目立たなければ、あるいは多数に了解可能なものであれば、僕は社会と対峙することはなく、はじめから濡れていれば、通り雨に打たれても「なんの今更」と思えるように、僕は働くことで、自己を薄めている節がある。

対処療法的な話だ。僕は今、その場しのぎの話をしている。一方で、父はそういう存在ではない。時空に対して幅を利かせている父という存在に対して、このような働き方はほとんど抵抗力を持たない。たとえば「将来のことを考えろ」と彼が言いでもしたなら、僕に返す言葉もなくなってしまう。なぜなら彼の言うことは、大抵の場合普遍性を持つために、僕にとってもまた、その通りだと思えてしまうからだ。
日々、僕は今の仕事が、自分の将来のためになるとは思えないでいる。来月を生き延びるためだけにやっている仕事だからだ。業務中は、暇もいやなので真剣にやる。それなりに成果も出る。しかしそういうのは結果論にすぎず、僕はただ、心の内圧から目を背けるために、目の前の仕事に当たっている。

心の内圧。それこそが、僕にとってあらゆる精神活動の源泉であり、経済的かつ二次元的な指標の中では、決してカウントされることのない、虚数的な圧力なのだ。僕はこの自分の生きるに適さない圧力を、自分の大切な要素と考えるようにしている。あるいは単に、拘っている。これがいつの日か反転して、人の世で生きる資格に転じることを、かすかに願ってはいる。もしくは、そういう方法が自ずと発明されることを待望している。

とはいえな。