Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

人生におけるSV関係の発展段階

45分以内に書かなきゃ……。

存在のSV関係について

「存在の」と迂闊に書いてしまったわけだが、要するに「ひとの」「自分の」「我々は」と言い換えても良い。対象としているのは、意識を持って活動している存在について。言語によるコミュニケーションが取れない存在については、一旦保留とする。プログラムの方向性としては、「このわたし」という個人的なスケールから出発して、社会との関係を明らかにする。


一義的な生とは、主語なきVの集合である

「朝起きて、まずコーヒーメーカーをセットする。コーヒーが出来上がる間に、顔を洗い、歯を磨く」――このような日常的なシーンを例に取るとわかりやすい。英語で書くときは"I"が必要になるかもしれないが(使わなくても書くことはできる)、日本語の中ではあまり「私は」と書かない。書かなくても通じるからだが、この通じる通じないを考えてしまうと脇にそれるので、これもおいておく。

注目したいのは、「起きる」「コーヒーメーカーをセットする」などといったアクションを取るとき、一々「自分は」と考えているか、という点である。考えていないと思う。自動的に行動しているだろうし、いっそ「気がついたら結果だけが残っていて、逆算的に自分がやったと判断する」ということもあると思う。よほどの悪夢を除いて、誰も自ずから目覚めようとして目覚めるわけではない。生命体としては、これで正しい。大抵のアクションは、この点からすると過去形で表記されるべきだ。現在形は宣言だし、現在完了形は動作を自覚した時に有効になる。

主語なきV(erb)の集合である、とはこの意味である。私の生は、基本的には「誰々が」とか「誰々の」という所有を認識することなく進行する。私以外の誰かのものではないのは確かだが、しかしそうと判断する間もなく為される動詞群が一義的な生の在り方である。

一人暮らしの休日であれば、これで些かの問題も生じない。簡単に言って、好きなことを好きなときに好きなように実行できる状態である。

準一義的な生について

「一人暮らしの休日であれば」 と限定したのには理由がある。たとえば、二人以上での暮らしの場合は、少し事情が異なる。慣れ親しんだ間柄であれば、動詞群は主語なしでも機能するだろう。あるいは、「映画を見る」というアクションについては、必ず「二人(以上)で」という形に展開するかもしれないが、この場合は「私と誰々は」と一々分別する必要がない(分けなきゃならない状況もあるだろうけど)。「我々」とは、個々を包括して言うかその区別が曖昧な状況を示す言葉であるから、タームを先取りすると責任は求められない。


副次的な生――社会的関係の中で――はじめて主語が要請される

さて、主語なき動詞群としての生について話をした。しかしながら、多くのコミュニケーションの場では、主語の省略は許されない。有声化していない場合でも、「誰が」というのは常に求められる。参照先がハイコンテクストであろうとも、欠かせない要素となる。これは一体どういうことなのか。「その行動の責任者を明示せよ」という要請である。社会においては、常にSとVの紐付けが求められる。SなきVはここでは許されない。「気がついてたらそうなっていました」と言いたくなる状況は多々あれど、現実には必ず行為者というものが存在する(とされる)。

他の例を出すと、業務中の飲酒は多くの場合、許されないだろう。

この「主語Sの要請」は、「社会人意識」とか「一人の人間として」などと言い換えることもできる。場合によっては、「フツーは」というフレーズを装ったり「同調圧力」と名乗ったりすることもある。この変容については、また機会を改める。ひとまず重要なのは、(個人という概念が流行り出してからこちらの)現代社会においては、ひとはひっきりなしに責任能力のある何者かであることを求められており、その役柄から降りることは時に困難であるという点だ。自宅に帰っても、ひとりの人間として、あれをせねばこれをせねばということになる。動詞の前に必ず「私は」とつく状態。あるいは、あれやこれをしてはならないという状態に置かれる。たとえば、「明日も仕事があるから、お酒は控えめにしておこう」など。

これが私を苦しめる根源である。

病へ

社会的要請により常に主語を明かすことが余儀なくされるとは、動詞が自由を制限されるということである。一人暮らしの自室という本来なら主語のいらないはずの空間にまで、社会が侵食してくる。ひとによっては、自室は自室(プライベート)と割り切って、主語なき生を楽しむことができる者もいる。しかし、これができずに社会に常に絡め取られたままでいると、息苦しさが生じる。この酸欠状態、不自由性、あるいは栄養不足が精神的な病の原因ではないだろうか。もちろん、全ての精神的な病がそうとは断言できないが、「これがしたいのに、何らかの事情でそれができない」という状況に対する反応としての病という構図は、根源的だと思う。


体験談の解釈

結構長い期間を頻繁に抑うつ状態を経験してきたが、これは振り返ってみるとかなり理不尽な話だ。自分の経験なので、簡略化して「なんか落ち込んでて、やる気の出ない状態」としても差し支えない。この由来を考えても仕方がない、大事なのはこれからだと言われたことも多かったが、最初の一二回であれば十分だが、こうも繰り返されると抜本的な解決を望んでしまう。そしてそのためには、状況の分析やら解体が必要になった。その中で思いついたのが、上の解釈である。目の前のことに集中する、ということが一時的に功を奏したケースでは、語学資格の取得に取り組んだときや、競走馬について調べたときなどが新しい。あるいは、自分には聞かなかったが、よく「筋トレをせよ」などと言われることもあると思う。「散歩をしろ」とか。これらに共通している要素があるとすれば、それは主語不要の状態に動詞を還元できて、社会的なSV関係の絡み合いから離れることができるからだ。マインドフルネスの一手法として、いまこの時の感覚や事象に集中せよというのもこれを企図してのことではないかということになる。

説得力という要素

追記すると主語Sの求められるシチュエーションにおいては、主語と動詞の結びつきのみならず動詞の説得力というものも重要なパラメータになってくると思われる。が、これも項を改める。要するに、「こんな時間に何してんの他にやることあるんじゃない」とか「それの何が面白いの」を封殺できるようなステータスである。この点でいえば、「その時間はトレーニングをしていますから、邪魔しないでください」はある程度説得力がある。


手法的な限界について

これはあくまで対処療法的な手法である。そもそも、完全なる無気力の場合は、いかなる形態であれ動詞を実践することが叶わないので、社会的な絡み合いから脱することもまた困難である。相手の無気力状態が、どの程度のものなのかは他者から容易に観測できるものではないので、「とりあえず何かしてみたら」はやはり難しい言葉だ。できれば、当人が率先して何らかの行動に出ることを待った方がよいのだろう。そして、そのひとが何かをはじめたときは、おそらくそれは当人にとって必要な手続きなので、よほど危険なアクションでない限りは見守っててほしいと思う。


間に合った……。