Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

幻聴に満たないが、その方角を向いているもの

掲題の通りのものがあると思う。崖っぷちに立っていると思って欲しい。一歩を踏み出せば、何もかも変わる。高さに応じて命が危ぶまれる。10cmほどでも、打ちどころによっては危険だろう。ここでの「高さ」は絶対的な指標ではなく、ただ「超えてはいけない一線」とでも言うべきやつだ。

 

以前、ネット上に転がっていた論文で、幻聴のメカニズムについてのものを読んだ。それによると確か、脳のある部分がうまく機能しないことにより、自分の声と他者の声との区別がつかなくなるということだった。

 

ぼくはこれを責任の所在の話だと位置づけた。そして構造主義に対する反例というか、おしなべて我というものは社会的な流れによって構成される……というのではなく、ちゃんと自己というものは確保されており、その上で、自分の声と他者の声を判別している、と。

 

この理解は、たぶんもう少し慎重に語るべきだろう。実際、タブラ・ラサに起源を発する自己論というのは、モデルの存在なしには語られない。ここでいう「モデル」とは、最近流行りの言葉で言えば「メンター」だろうし、「インフルエンサー」とかも含めてていいかもしれない。

 

ひとは誰かを見て(両親、友人、クラスメイト、恩師、有名人など)、態度というものを獲得していくのであり、全てが無から生じるわけではない。この点でぼくは7割くらい輪廻転生を否定している(そういう関係性に巻き込まれている事態に因果が働いていると思えなくもないので、3割は肯定用に保留している)。

 

急いで本能についても記しておこう。Fight or Flight、あるいはもう少し範囲を広げて、「誰しもそうするよね」という民族的な(神話的な)対応についてもだ(see also : 沈没しかけた船から飛び出させるための国民性によるアプローチ、ステレオタイプ)。

 

そういう反応は実在する。これは経験に基づく。しかし、それを生のまま生かしておかないというのが社会であり、たぶんこれはいつの時代もそうだった。でなければ殉死って事態が起こるわけがない。主観に参照される、個を超えた文脈ーー宗教とか集団の論理ーーそういうものが、本能的なものに制限をかけて、文脈に奉じる行動を起こすということは珍しくない。「みんなこう言ってるから、自分では違うと思うけど、賛同しておこう」みたいなあれもこれに含まれる。

 

さて、幻聴には満たないが、それに準ずるものとして、「そういうムード」がある。頭の中で、ざわめきがする。わんわんと喚き立て、明確な言葉にこそならないが(ここが超えてはいけないラインだ)、それが自分を非難していることは分かってしまう。代表者がいるわけではないので、群体としての、集合としての、羽音として聞こえてくるもの。

 

これを解体すれば、90-00年代的な価値観「その歳になって」や「嘘を吐いているんじゃないか」とか、今まで多かれ少なかれ虐げられてきた経験、無力感、不能感などが現れてくる。

 

しかし、このような要素は、単に出自を表すだけに過ぎず、要するに「某国人」みたいなレベルの話なのだ。ステレオタイプで国民性を語ることは可能かもしれないが、しかし個人に適用はできないように、出自が明らかになったところで、声の群れを構成する個々の声を特定はできない。

 

総合としてのブーイングだけが与えられている。

 

声は頭の中にあり、したがって所有権はぼくにあるはずだが、しかしそれは社会の側に根拠を持つので、如何ともしがたい。

 

ぼくは自分に与えられているこのブーイングを統治することができない。喧しさに頭がクラクラする。酒を飲んでも紛れない。壁は揺れ、肌ーー実存の表層みたいなもの、他者群と触れ合ってる境ーーにビリビリとくる。とても苦しい。うるさい。

 

これに対抗する術がないわけでもない。一例として、自分の中に、ちゃんと権利を打ち立てることが挙げられる。つまり、我々の属する社会、例えば実務的に言えば、「この国のホーリツはそれを認めている」というような。

 

しかしこの路線の構造的な欠陥は、万民はホーリツを網羅しておらず、していたとしても、感情は独立して動く、という点だ。

 

ホーリツは様々な危機感に対応しておらず、絶壁を過ぎて落下中の者にしか適応されない。暇じゃないからだ。

 

感情はもっとシビアである。感情はコンパッションとは相容れない。感情は自分を守るため、各々の現実を否定したくないために、他者を容易く攻撃する。落下中の人間は放っておいても死ぬのだが、感情は落下中に息の根を止めようとする。経歴を破壊し、過去を破り捨て、さらにはそれを産み出した諸条件ーー親や親族や友人や環境までを排除しようとする。まあでもこれは白血球もやってることだな。

 

ひとそれぞれですからね、はまだ通用しない。生き方についてもそうだし、支援を求めるときもそう。いや、真の支援者は理解を示してくれるか、あるいは適度に突き放してくれるのでまだいい。しかし、一方では、支援を受けるそのことが、衆目により攻撃されるのではないかと怯えている。怯え続けている。脅迫されている。

 

そういうものが、声になる。耳のそばでわんわんと喚き立てる。試しに爆音で音楽をかけてみる。全然効果がない。幻聴に満たないこのブーイングは、ぼくの魂にアイスピックを突き立てる。グサっとやって、カツンと割る。心はどんどんヒビ割れていく。

 

執拗なことに、もはや小指の爪ほどの大きさしかない心の塊に対しても、こういう作業が続けられる。

 

存在は許されていない。