Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

なんとなく続けることの難しさ

なんとなく続けることの難しさ

今日、「中身のない日常を文章にする」という企画は三日目を迎える。当初の方向性としては、「愚にもつかない毎日も文章にした時に面白くなるなら、その毎日は面白かったと思えるのでは?」というものだ。印象操作に近い。対象範囲はあくまで個人で、判断基準も主観による。小説を再始動するための準備体操のようなもの。

ぼくは自分の小説の中で、よく登場人物に固有の考え方や感じ方を設定する。作者はそうは考えないけれど、この子は考えるという形式だ。これが仇となり、ある日突然彼ら彼女らに共感できなくなったりすることもある。その場合、残念ながら作品自体も丸ごと頓挫してしまう。設定とは言ったが、それほど固定されたものではなくて、むしろ即興劇に近いものなので、劇を中止せざるを得ないような事件が発生する流れのようなものを失ってしまうのだ。たとえば、仕事で大いに凹むとか、とても面白い作品に没頭してしまうなど。

そういった失敗経験の連なりが、ジンクスのように響くことがある。時々、というか度々、いやむしろかなりの頻度で「このままで大丈夫か?」「今(劇の)外で何も起こっていないか?」と身構えるようになってしまっているのだ。この状態って学習性無気力に似てるんじゃないか、とぼくは思っている。多少調べてまとめてもいるんだけど、対策がこれといって見つかっていない。実践しようにも、「このまま続けて大丈夫か?」と問い直す癖は直らない。今日がその日、ということになる。


「それって何が面白いんですか?」「もう少し続けてみないと分からない」

誰に言われたでもないが、そういう設問がほとんど常に頭の中にある。ここ二年間くらい、色んなひとと話して、それを自分なりに理屈づけていく中で、ようやく次の結論を得た。「面白さを他人に伝えられなくても良いし、自分すら面白いと思えなくても続けて良い」。これに地理的感覚が近いフレーズとしては、「おれだけがこの面白さを分かっていればいい」というのが想起されるんだけど、これには二つの問題があった。ひょっとしたら独我的かもしれない趣向を貫けるほど自分は強くないし、そもそも自分が何も面白いと思えなくなってしまうことが度々あるという点だ。

前者については、同好の士を見つけることができれば生存する道も開けるのだが、後者の場合は休むしかない。困るのは、この二つが同時に来た時だ。そしてこのパターンが大半を占める。「他者に了解してもらえないなら、それって無いも同じでは?」という悪き民主主義みたいな発想(そんなことはないんだって)も、敵方に加勢することがある。多いに苦しめられたところだ。今でもときどき苦しめられている。

大体、自己は個として存在しており、まず自分の欲求というものがあって、それを尊重することから外交的な折衝とやらはスタートするはずなのに、現実には自分の領土を守ろうともせず、社会に食われるままに任せて泣き寝入りしがちなんだよな。いつも戦えとまでは言わないが、せめて逃げろとは思う――これは自分に対してだ。自分に対して、こんなことを言わなきゃならないのである。わざわざ、繰り返し、ことあるごとに。

自分がなかなか自分のことを肯定してくれないので、そうしやすいようにサポートをしてやらなければならない。幸か不幸か、自家中毒というべきか、当然というべきか、自分で考えた(と思い込んでいる)理屈については、かなりの信頼を寄せる傾向があるらしい。ちなみに拡張性もあると自負しており、現に他者の意見を貪欲に取り入れていく様は好印象である(懸念とすれば、消化に時間がかかる点か)。であれば、大変な手間ではあるが、生きやすくしてやるには、好みの理屈を説いてみせるしかない。

そういう試みをずっと続けてきたのだと思う。意識的に行うようにしているのは、ここ半年くらいのものだ。