Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

今日も頼んでないのに人生がはじまる。

今日も人生がはじまる。

昨日の続きというらしい。

 いつも通りに換気扇の下で煙草を吸っていると、ふとそんなことを思った。火をつけたところまでは覚えているが、気がつけば三分の一を残すのみだった。いろいろと納得がいかなかった。まだ全然覚悟ができていない。自覚のないままに時間は過ぎていく。およそ休めた気がしない。くたくたである。

「寝ていた間だって脳は動いていたじゃないか。あの夢、大長編だったんだぞ」と軽度の理不尽を覚えるが、フィルターの瀬戸際まで吸い切った煙草は消さなければならない。吸い殻を立てる努力もすることがなくなって久しい。ぼくはこれが得意と自負していたはずなのに。

 冷凍うどんを使い古しのプラスチック容器で解凍し、卵とめんつゆをかけて食べる。この組み合わせで不味いわけもないが、かといって舌鼓を打つまででもない。必要最低限度の無気力の権化。これだって栄養のことを考えられるだけ、十分進歩した。一応歯ごたえはあるので、頭はじょじょに運転を開始する。体の方に活力がみなぎるのは、もう少しあとの話だ。そう期待したいところだが、雲行きは怪しい。

 頼んで今日という一日がはじまったわけではない。今日を今日たらしめるには、何らかの儀式が必要になってくる。睡眠と覚醒の間に強引にでも境界線を引いて見せること――顕微鏡で見れば、ここには呼吸やら発汗やら各種生合成といった自動的なものから、食事や食後の一服やシャワーなどまで含まれる。ある程度工程数の多いアクションの方が、非覚醒の圏外に出るために必要なのかもしれない。筋トレとかしたら良いんじゃないか、ウォーキングはどうかという発想になってくる。

 結局は、何もせずにテキスト・エディタに向かうのだった。先日の試験で、スマホに打ち込むとHTMLタグの管理が難しいと分かったのもある。キーボードで両手が使える状態なら、pタグを打ち込むのは苦にならないが、フリック入力で大なり小なりまで打ち込むのはさすがに手間すぎる。「ほんの少しの手間は、ひとをより大きな困難へと立ち向かわせる」とは誰の言葉だったか。ぼくは、スマホで完結するミニマルな手間に敗北した。

敗色妄想

 敗色妄想――何かと勝負しているわけでもないのに、負けている感じがしてしまうことを、今日からそう呼ぼうと思う。すでに誰かに呼ばれているかもしれないが、調べようとは思わない。分解すれば、気怠さとか無気力とかいうことになる。あるいは低血圧とか低気圧。たしかにそういうもので構成するのも手だが、「敗色妄想」と一言で表してしまえば簡単だ。持ち運びやすいし、何より構成要素の正確性を検証しなくていい。

「――とにかく、起きたときからもう負けている気がするんです」とぼくは思った。「なにをしても戦局は覆りません。血は止まらず、このまま飢え死にしちゃうんです」

 何々妄想という言葉の素敵なところは、それはある種の希望の裏返しだという点にある。この構造を暴力的に単純化するなら、その希望を叶えることさえできれば、問題は解決する。課題となるのは、この妄想とやらは当人の価値観を色濃く反映したもので、故にそのひとの人生と同等か瞬間的にはそれを遥かに凌駕する現実感をもって顕現することだ。一言二言で、ひとりの人間を再創造することなどできない。世界を丸ごと敵にしているかのように思えることもあり、対する我が方はちっぽけだ。この相対性がひとを狂わせる*1

「敗色妄想」と名付けることで、そこにはある種の希望が生まれるのだ。影を先に描いて、光源の存在を逆算する。

「今や光る星の方が少なく見えて、宇宙は黒く見えるのにね」などと抜かしながら、「ビックバンの頃なんて覚えてないけどさ――」とコーヒーを継ぎ足す。「ところでショージキ、この妄想って何から構成されてるんだっけ?」

 当然、答える者はいない。強いてキャスティングすればぼく自身だが、あいにく此奴には他に考えるべきことが山ほどある。妄想と釣り合うだけの希望の存在が分かれば、当面はOKなのだ。迂闊に突いて、蜂の大群みたいに化けるそいつと一戦交えようというつもりは毛頭ない。


途中経過

 ここまでで一時間半くらい、1800文字ほど(タグ含むのか?)。一服。


再開

 キャメルがなくなったので買ってきた。ついでに牛丼も買ってきた。食べるとお腹がいっぱいになって、苦しい思いをした。しばらく動画視聴、AmazonPrimeでチェンソーマンの9話を見て、YouTubeを流しながら散髪に再挑戦。三度目の正直だ。人間は後ろに目がついていないし、肩を回すにも限界があるので、髪型が整っているかが分からない。整える必要性もあまりないのは淋しい話かもしれないが、こればかりは仕方ない。そうこうしていると、牛丼もこなれてきて、MPも回復してきた。何かをしよう。

やりたいことリスト

  • 小説を書く
    現在カクヨムで連載中なのは、『スウィート・スウィーパーズ』。殺し屋の女の子の話だ。殺人という極限的な状況を想定することで、色々と語りやすくなるはずという考えだったのだが……。今は日常回を書いている。「日常とは一体なんなのか」という地点から考えなければならなかったので、かなり時間がかかっている。言い訳を重ねれば、さらにその後、自分の人生について考えなければならなくなったので、結構間が空いてしまっている。
  • 昨日のブログに手を入れる
    昨日の記事がこれ。どこにでもある日常をどこまで小説化できるかというプログラムはここからはじまっている。はじまっているのに終わっていないのは、いつものことだ。一応の達成項目は用意してあるので、こちらはそれほど長引かないはずだ。
  • 読書をする
    積読がえげつないことになってきた。
  • 図書館にレンタルの予約をする
    なのにまだ本を借りようとしている。
  • 楽器を弾く
    最近、中古のキーボードを購入した。かなり昔に弾いていた期間があるから、楽譜さえあれば勘を取り戻すことができるかもしれない。また、その翌日に友人からギターを借りたので、こちらも挑戦してみたい。以前から楽器を手元に置いておきたくて、奏でられる環境がほしいほしいと言っていたのだが、後回しにしていた。自分のことは蔑ろにできるタイプだ。思わぬ形で手に入ることになった。部屋は狭くなったが、その分QOLは上がっている。もっと早くにやっておけばよかったが、巡り合わせというのもあるしな。
  • 資料や機材を揃えに行く
    これは楽譜や五線譜、ギターにつける装置などのこと。
  • 仕事探し or 資格取得について調べる
    この織倉未然には夢がある。最近、小説を書くのはそのひとつの在り方なのでは、という解釈がもたらされた。もっと単純に、小説だけで食べていくことができれば(現時点では)理想的だけど、それもすぐには難しいだろうとの判断だ。これ自体は、もう何度繰り返したか分からない着地である。しかし、「諦める理由はないにしても、すぐには難しい」と言えるようになったのは、新しい。諸々の資料を集めるにしても、取材に行くにしても、先立つものは必要だ。あとは「自分の夢」とやらの表現の場を求めている。そのためには、特定の資格があると手っ取り早い。

 こうして羅列してみると、自分がいかに色んなことに手を出しているかということがよく分かる。一見すると散らかっている印象もあるが、実は自分なりの理屈もある。余力があるうちに、自分を構成する要素を分散しておいた方が良い。今まで顕著だった発想は、「自分は小説を書きたいのに、なかなか進まない。もうダメだ」というものだ。小説執筆の位階は依然として揺るぎないにしても、ぼくの全実在がこの行為にのみ乗っかっていたとも診断できる。不安定になりがちだったのも、構造的に不思議はない。そこで、支柱を意識的に導入することにした。それが乱読だったり、楽器を弾くことだったり、再就職or資格取得(からの就職)などである。

 ところで、「全実在」などと気軽に述べたが、これは正確な表現ではない。そもそも実存とは運動だし、ふつうは行為とか関係として表出してくるからだ。一対一の関係に閉じてしまうと、その行為とか関係というのは共依存的になるんじゃないだろうか、ということは考えた。織倉未然を個人として捉えたとき*2、一対多の関係の方が安定性が増すというのは想像しやすい発想しやすかろう。

 問題は、一対多の関係構築がはたして運営可能かという点にある。しかし自分の中に実例がないかといえば、そんなことはない。今までいろんな作品に触れてこれを叶えてきた。一例をあげれば、第501統合戦闘航空団のメンバーに対してとか。


*1:ところで、 ぼくの立場としては、人間は世界に属するし、個人の創造物としての世界観と対象としての世界は分類が困難である。本性的には区別はつけられない。しかしながら、便宜的に自己と世界を両極化してみせるというような誠実ではないだろう実践を心がけている。

*2:ほんとうは、多様体としての個人について議論したいが、ここでは省略する