Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

生存報告

生きているというのは、巻き込まれた事態である。

これは別にぼくが言い出したことではなく、似たフレーズとして「人間は自由という刑罰に処されている」というサルトルのものがある。 それまで「自由」というのが伝統的な崇高な目的とされていたのに対して、サルトルはあえてこういうことを言ったらしい。 常に何らかの決断を強いられているという点では、確かに拷問めいた話である。

毎日のように、強い不安がある。 夕食をとった後が特に辛い。 そこから、眠るまでの時間を持て余してしまう。 本来ならば、食事はリラックスの方向に働くらしいが、どうもそう向いていないような気がする。 本来ならば、食事はエネルギーの源になるらしいのが、これもそう働いていないような気がする。 どっと疲れるし、その状態から、自分が己に望むこと(小説を書くこと、読書など)に移行できない。

そういう不能感、無能感というものは、どんどん強くなっていく。 対処方法としては何があるんだろうか? これにしても「何をしても無駄だ」という結論が直ちに導かれてしまう。もちろん、「何をしても無駄だ」だなんてことはない。そんな悲しいことがあるはずはない。常に何かしらの逃げ道はあるはずだと理性は言う。現にこうして文書を書くことができているではないか、とすることもできる。ただし、こういった事実は証人としては非力なもので、結局ぼくは主文を覆せず、敗北感の中に沈んでしまう。

問題設定の仕方が間違っているのかもしれない。「何かをしなければならない」という強迫観念めいたものと対決しようとすること自体が正しくないのでは? そうかもしれない。実際、ここ2週間くらいは概ねそんな感じなのであって、対決することを放棄し、ただ時間が流れるのに任せている。これはこれでひとつの拷問に思える。

理想的な状態を設定しよう。 食事をとっても頭がぼんやりすることがなく、就寝に適した時間までの二、三時間を有意義なものに変える。
原稿を書く、読書をする。望ましい自分を支える何かを生産して、それで自分の心を守ること――それができれば、一番良い。アイデンティティは確保され、また来る明日だって、少しは胸を張って生きていけるかもしれない。
これって、そんなに難しいことではないはずだ。「食後の時間を、趣味に費やす」、それはリラックスタイムのはずだ。「自分が自分でいるための時間を作って、その通りに実行する」。簡単に思える。

でも、マジでこれができない。
実際、頭はぼんやりしているし、想像力のギアは外れている。
車のたとえ話をされることがある。ガスがなければ走れない、というあれだ。もうそういうレベルではないような気がしている。パンクしてたり、車輪を繋ぐ軸が折れてたりしているんじゃないだろうか。窓ガラスは全部叩き割られていて、ライトの電球も切れている。別に公道に出ようというわけではない。それよりもっと手前の問題、もはやそれは現在進行形の「車」ではなく、過去形の「車だったもの」、ガラクタの寄せ集めなんじゃないかという状況である。

これが、今日だけの話であれば、まだ我慢できる。何日も続いたり、一日の中に何度もそういう時間があったりすると、辛くなってくる。正直なところ、かなり耐えられなさを感じている。好きなはずのものが、遅々として進まない。そうすると、「それって本当に好きだったのか?」という疑問も浮かんでくる。これは破局的な問いだ。アイデンティティとして維持してきたはずのもの、喧伝してきたはずのものに対する不信感。織倉未然とは、小説や音楽、映画を愛し、小説を書く者であった――それ自体は簡単な定義だったはずなのだ。氏名の欄に、自分の名前を書くように。

だけで、ここ最近はその名前を書くような簡単なことが、どうにも困難になってきている。
それでも生きている。
はたして、それが本当に「生きている」ということかは、ぼくにはわからない。