Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

自己PRとかキャッチコピー、マジわからん

就活のときもそうだったんだけど、マジでこれが苦手。人生の簡易な言い換えって難しくない? それでも、就活のときはまだどうにかなった。相手が求めているようなことを言いましょう、というルールが見えたなら、そこに適応したことを言えば良い(良かったんだと思う)。「なんでもやらせてください!」がその代表だ。実際になんでもできるか、は別である。仮面を被り続けることができるかは問わないものとする。オチとしては、「なんでもやらせてください!」って言うほど「なんでもできる」タイプの人間ではなかったため、いろいろ無理が祟った。

さて、某小説投稿サイトでは自分の作品にキャッチコピーをつけることを余儀なくされるし、第一印象といったらこれだ。そのあとあらすじが続く。これも大事。それが全てってわけではないにしろ、かなり重要なんだと思う。効果を実感したことがないので、よくわからないけど。

某画像動画小説投稿サイトで、依頼受注のためのプランを作ろうとすると、プランの説明が求められる。これもまた自己紹介だ。「受けたいと思うリクエストを受けましょう」とは書かれている。とはいえ、自己紹介は必要だ。ここでもだ。,

で、問題は、そもそも自分の強みとか「こういうテーマのものを書きたい」って気持ちがあんまりない、という点。ぼくは手先でやっているし、最近はリズムとか韻の踏み方を楽しんでいる。つまりやっていて楽しいのは、このタッチの部分であって、描く対象にそこまでこだわりはないのだ。もちろん、元ネタがある場合はそこに対するリスペクトはある。それが与えてくれた霊感があるからこそ、書こうという気になったのだと証言もできる。でも、文章を作っていくときの楽しさのほとんどは、即興的な言語の弄びから得られる快楽が大きいとも思う。単語同士の組み合わせ、概念の提示、それらの構造を拡大したり縮小したり、反復したりというその操作に、楽しみがある。

こういうような場合、自己PRやキャッチコピーというのは、提示しにくいことこの上ない。楽しんでいることが、畢竟、言語的な化学反応とか概念操作なのだから。テーマもなにもないのだ。ましてや強みとは。

二次創作の場合、恋愛ものをよく書くことがある。明示してはいないが、そうと香ってくれればよいなというものを書くことがある。ここでの「恋愛」はテーマだろうか。ぼくが書きたいのは、ある種の距離感や雰囲気、つまるところの構造であり、そこに生まれるエネルギーの駆動する様だ。それを口当たり良いよく「恋愛」と呼ぶことはできるかもしれない。けれども、メインの関心事は「恋愛そのもの」にはない。

躍動する構造は書きたい。でも、プランの説明に「躍動する構造」と書かれていたら面食らうと思う。おまけにそれはぼくの手つきであって、テーマでもないし読者に伝わっているかもわからない部分の話だ。たとえばぼくは中華料理店であって、フランス料理に特有の素材を持ってこられたとしても、出てくるのは(出てきたとしても)中華風であろう――そういう乖離がある。