軟禁、落雷、時間を剥奪された水たまり
三人称小説が苦手だ。これは単に練習を積んできていないせいだと思う。
小説を書く際にテクニック名があれば良いのにと思う。 ここで併せて想像しているのは、テトリスのことである。
よく知らないが、テトリスには色々テクニックがあるらしい。TスピンとかDT砲とかRENがなんとか......ぼくが意識してきたことといえば、四列同時に消すことだけだった。
「ああ今{テクニック名}を使いましたね」というような、技名があると良い。 それがあれば、まずは習得を目指して練習することになるので、「今日は{テクニック名}を試してみよう」という気持ちが働く。
モチベーションは色んな手段を用いて、複合的に上げるべきだ。使命も聞き取れず、目標もなく、作中の問題意識もなく、書くことの快楽も書きはじめる前は感じ取れないのだから。
この点でいえば、語学学習は簡単だった。内容はともかく、習得に向けてのルート作りにおいて、あれほどやりやすいことはない。 まずはテキストの例文をノートに書き写す。その単元で話題となっているテクニック(文法)を意識しながら、問題に答えていく。文法構造が分かるようになったら、既知の語彙で新しい文章を作る。自分で言ってみたい内容が見つかれば、辞書を引いて語彙を補強する。
最終的なゴールも明確だ。 語学学習の目標は、その言語で原文小説を読めることだったり、該当原語の話者と話すことだったりする。文法知識も語彙も多い方が断然良い。少なくてもやっていけるが、目標に照らして無駄になることはひとつもない。すべてが生きている。
もっとも、実生活で語学力が活かせるかは別だ。バイトや就職で語学が本当に必要なシーンはあまり見かけて来なかったし、想像することもやめてしまった。翻訳や通訳という道はあるかもしれないが、それには突き抜けた能力が求められるだろう。ぼくは、そういう仕事をパッションだけではどうにもならない領域に位置づけている。
別の道筋、たとえばその言語の話者と出会う機会もほとんどない。この街には、というか、この部屋からは難しい。インターネットを介して探すことはできるかもしれないが、そういう気力も湧かないのだ。
このようにして、培ってきた能力を軟禁状態におくことはできる。
軟禁状態から抜け出すには、ある種の光が必要だ。たとえば、自由への渇望であったり、あるいは相手の言葉で語り合いたいというような。 今までの語学遍歴の中で、もっとも必要性を感じたのは、懇意になりたい相手がいた時だった。そういう経験は二度あった。
一度目は、その言語ができれば相手の気を引けるだろうという程度のもので、交換留学生だった彼女はセメスターを終えて帰国した。ぼくは半年遅かった。
それから数年後に聞いた話だと、当時の彼女は遊びまくっていたらしい。その中にぼく自身もカウントされていれば、と一瞬だけ思ったのもたしか事実だが、それ以上に初めて見かけたときの痺れの方がリアルで、今でも思い出せる。彼女の名前は忘れた。一目惚れは実在するんだと思ったことだけ覚えている。
二度目は、親友の彼女の友人だった。世界中を旅する中で、日本に少しだけ寄ったひと。彼女の研究テーマは、ぼくが最も関心寄せるところだった。 本場の言語でもっと深く語り合いたいという気持ちが先行し、すべてを引っ張っていった。今まで学んできたこと、ただのファンとして自主研究に励みながらも結局は無為に終わるんだと諦めていたことが、一転して救われた経験だった。ここから明るい人生がはじまるんだと思ったし、今までの困難のすべてを許せたばかりか、肯定的に受け入れられた。実に健全だった。 彼女は旅行に来ていただけだったので、すぐに帰国し、やがて連絡もつかなくなった。
三度目はもう来ないだろう。
こういう形式の光明は、外から訪れたものだ。運命といってもいいほどに外在的で、ぼくの力ではどうしようもない。呼び寄せることもおそらくできない。たまたま国際交流が盛んな大学に進んだだけで、たまたまそういう友人を持つひとと知り合いになれただけで、たまたまぼく自身が目の前を通り過ぎた幸運をそうと認めることができただけだ。
むしろ悲観的にさえなりもする。まさしく落雷のような幸運が、今後もやってくるとは到底思えない。このまま低い大地の上で生きていかなければならないし、そのための在り方を構築しなければならないのだ。
一人称であれば、これくらいのことは書ける。 けれども、ここにはテクニックが存在しない。あるいは存在自体はしているかもしれないが、その名称が分からない。名付けることができないなら、気づくこともまた難しいのだ。名前のないものを操作するのは至難の技である。 およそ解説に適さない書き方をしている。つまりは単元づけができないということであって、こういう手続きを理論化することができないのだ。
単純に感覚だけで文章を書いている。これでは、感性が鈍ったとき、死んだときに対応できない。書きたいという気持ちも表層的だ。それには「なぜならば」が機能していない。そろそろ書き終えたいから、では自分を説得できない。行動に駆り立てることができない。
本能の要請する「書きたい」という気持ちは、快楽を伴うものだ。書くこと自体が気持ちいいというような。それもひとつの動機である。あるいは、「締め切りが迫っているから」とか「この賞を獲りたいから」という気持ちも効果的だろう。それは本能とは関係がなく、表層的でもない。もっと上層に位置する発想である。このバリエーションとして、使命も挙げられる。締め切りとか受賞といった社会に接している外的な動機、神に唆されたという幻想的な感覚、それらは等しく上層に位置する。自分の外殻の外側にあるもの。
一方の表層的な「書きたい気持ち」は、嘘ではないにしろ偽物の誹りを受けても仕方がないものだ。行動に駆り立てるような情熱と繋がれば別だが、そうではない。自分が実に薄っぺらい感じがする。平面的。次元が剥奪されている。落雷をそうと認識するには体積と時間的延長が必要なのだが、いまのぼくにはこれがない。
水たまりみたいな「書きたい」という気持ちは、ぼくを窒息させる。いっそ蒸発することを願うが、時間的延長すら剥奪されているので、それも叶わない。ただ過ぎ去る時間と自ら消費する時間は、ある意味で異なるのだ。