Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

織倉メモ

生きてる。

 兄弟の誰かが結婚したり、仕事が忙しくなったり、体調がぶっ壊れてしまったりなど色々あった。アイカツスターズ! を見て、アイカツ! の3rdシーズンを見たりしていた。卵ご飯を食べるようになった。ITパスポート試験があったが、受けずに終わった(着替えがなかった、というのが言い訳の一つ)。それぞれ語ることももできるんだけど、特筆すべきことはもちろんない。

 小説を書きたい、なんらかの研究をしたい、という気持ちがまた蘇ってきた。周期的に蘇る。そしてそのたび、何かが障害となって、この気持ちは死ぬ。しょっちゅう押し寄せる気分の落ち込みと同じように、「自分の好きなことをもうちょっとやりたい」という気持ちが来る。

 将来の夢ってなんだ? 自分が本当にやりたいことって? という疑問は、今も昔もぼくの中にある。実際に問われたこともあるだろう。その時々、自分の中で回答を出してきた。問われた時の気持ちとか、天気とか、誰から言われたのかは覚えていない。こういう意味では、普遍性のある問いだともいえるし、その場しのぎで対応してきたような気がする。昔のことなんて忘れたし、今日のことすら覚束ない。そもそも、この「その場しのぎ」すら、本当にあったことなのか定かじゃないのだ。

「わたしはこういう者です」と、自分を紹介できるか。名前は一つの記号だが、それ単体では意味を持たない。実際、リアルの名前と織倉未然はまったく別だし、「仮面を切り替えている」とまでするほど、分けていもいない。雑な話、羊とsheepは同じ生き物を示す。ここでは、もこもこでめぇと鳴く生き物の部分の話をする。

 自分を客観視しましょう、とすることは、必ずしも感情を切り離すことを意味しない。これは最近の気づきだ。自分がどういう感情にあるか、と記述的に表現すること。
「ぼくは落ち込んでいる」と「織倉未然は落ち込んでいる」は、ほとんど同じだ。ただし、ニュアンスが異なる。「おれはなんてダメなやつなんだ」は自動的に言ってしまいがちなセンテンスだけど、「織倉未然はダメなやつ」には「そんなことなくね?」を差し込める隙がある(実際には「ダメとは 定義」みたいなものを差し込む。結果として、「ダメダメだぁ〜」と落ち込むオチになることもある。共倒れ)。

 もし他人に言ったらそれは残酷だろ、というようなことを、自分には平気で言える、という精神構造がある。『罪と罰』の中で、主人公ラスコーリニコフに、ラズミーヒンは言った――「きみは人間を尊重しないで、自分を侮辱している」(上、p.27, 新潮社)。
 ぼくが他人に言わないのは、せめてもの倫理観からで、それが精神的な最終防衛ラインだからだ。でもいつまで保つかはわからない。破られたら自決する。

「自分が言われたら嫌なことを相手にも言うな」というのは、ひとまずのスタンダードとしては通用する。しかし、「あなたのためを思って」マンには機能しない。
「相手が不快に思うことは言わない方が良い」となれば少しはマシだが、相手が何を不快に思うかは根本的に読めないので、「不快に思う可能性があるから禁止する」までは一本道だ。

 快/不快の構造から発してるなら、別に新しい議題ではない。現代特有の事象ということもないだろう。バベルが落ちたのは同じ言語で話していたからではなくて、同じ場所で話していたからなのだ。言語が分かれたことよりも、散り散りになったことの方に意味がある。会話が不可能になるくらいの距離を確保すること、これが衝突のリスクを軽減する。