Les miZenables

フランス語、ドイツ語、映画や本についてなど。いろんなことを横断的にやっていこうと思っています。

小説を書くには小説を読まなければならない気がするという話

これは創作論とまで拡大適用できる話ではないんだけど、小説を書くには小説を読まなければならないと自分に課している節がある。それは別に「良い作品を読むことで、文章力が醸成される」というような、高尚な話ではない。ある一時点で響かなかったにしても、再読する度に響くようになるかもしれない。だから、響く響かないはこの際関係なくて、「書くには読まねば」と思っているのには、きっと別の理由がある。今回はこの話をする。

しかし先に寄り道をさせてもらう。
いわゆる古典とされるものであっても、それが自分に響くかどうかは別問題だ。人生は人類の歴史に比べると短いので、自分が生まれるずっと昔に書かれていて、すでに評価の高くされている作品だとしても、個人にとって重要なのは、むしろその本に出会った年齢という気がする。10歳と25歳ではわけが違うのだ(けれども、どちらが正しいか、という話にはなりそうにない。10歳のときと25歳のときの両方にその本にぶち当たったのなら、それはひょっとすると運命的なのかもしれない。捉え方による。その衝突を幸運と呼ぶことができるなら、そのこと自体が何よりも幸いなのだろう)。

例をあげるなら、ぼくはドストエフスキーが好きだと言えるけれど、トルストイについてはまだわかっていない。敵対もしていないが、かといって、読み直そうという気にはならないで来ている。単にドストエフスキーの方が好きすぎて、熱中したことがあるだけで、トルストイは集めて来なかっただけだ。これはビーフ・オア・チキンという質問に似ていて、ビーフを選んだからといってチキンの地位を脅かすものでは一切ない。世の中には、フィッシュもポークもラムもある。肉を食べないという選択肢もある。巡り合わせの問題、と言えないこともない。

古典の優れたところについて、村上春樹のある作品では「時代の洗礼を受けた」(洗練かもしれない、洗練だと思う)というような表現がなされていた気がする。これは生存バイアスとも取れる。事実、すでに述べたように、古典だからといってどの読者にとっても面白さが保証されるというわけではない。ひょっとすると、古典故にデジャブを感じるということもありえる。

古典というのは一つのブランドだ。古典だから素晴らしい、という言い方がされることも多い。少なくとも、古典だし読むべきなんだろうな、と思うことは、ぼく自身にもある。この価値は世間によって、より正しくは歴史の中で育ってきたものだが、それ自体が唯一無二の正義だと言うことはできないし、でも間違った価値観だと言うことも難しい。歴史の中で培われてきた価値と、読者一人一人が現在形で主観的に付与する価値というのは、同時に成立しうる。

さて、古典には間違いなく優れている部分が少なくとも一つある。翻訳されやすいという点だ。
ドストエフスキー作品の中で、ぼくが一番好きなのは『罪と罰』だが、これはいろんなひとによって訳されているし、外国でも同様だ。ひとつの話を頭に入れるだけで(馴染む作品は自ら記憶に刷り込まれるのだが)、知らない外国語でも読める気がしてくる。翻訳ごとに微妙なタッチが異なるし、言語によっても色調は変わる。これは疑いなく幸運だろう。
寄り道はここまで。

小説を書くには、小説を読まなれけばならない。ぼくは自分にそう課している節がある。実際は実行できていないし、集中できるときは、そういうことをしなくても書けるのだから、必ずしも必要というわけではない。ただなんとなく、そう感じているだけの話だ。

当然、使命とか義務とか、そういう上からの発想ではない。もっと近視眼的な話で、単に読みながらだと、文章が書きやすいから、というのが理由になっている。 思い返してみると、一番長く小説が書けたとき、ぼくの机の上には常に数冊の本が積んであった。数十まではいかなかっただろうし、多くても五、六冊だろう。左に積んだその山を、数ページ読んでは右に積み上げ、左の山が消えた頃、サイクルをやり直すといった具合だった。署名はほとんど覚えていない。今のぼくに見えるのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『地下室の手記』かそれこそ『罪と罰』だった。

それでなぜ文章が書けたのか。思うに循環していたからだ。文章が頭の中に流れ込み、脳の中で自分のことばに翻訳され(あるいは自分というシステムの構造的限界からそのような形で)文章として出力されていた。左から右に移動した本の山は、そういう意味では燃料だったとも言える。 光合成にも、陽の光と二酸化炭素、水などが要るように、ぼくには本が必要だったのだ。

危険性があったとすれば、一冊の本をストレートでちびちびとやりながら書くと、そのような文章になるかもしれない、という点だった。書き写すのと違って、全く違う世界観の、全く違う人々について書くのであれば、何より作者とぼくが別人ならば、全く同じ文章が出力されることはない(この点でぼくは上に「構造的限界」と書いた)。だから意識的に複数の本を積んでいた。

別の理由も考えられる。ぼくは複数の本に見た、自分の好きな世界を探していたのかもしれない。重なり合ったところ、AでありBでありCであるような部分、それがぼくの書きたい文章だった。

今は隣に本を置かないでも、文章を書くことができている。けれども、これはオリジナリティを得たからというわけではきっとない。自給自足ができるようになったのではなく、ただ惰性で自給自足をしている。ぼくの大地は痩せていて、実りはあまり得られそうにない――そう感じている。惰性で行う自給自足を、もう少しポジティブに捉えるなら、ぼくは大地の研究をしているとも表せる。しかし、もっと滑らかに小説を書くには、流れるものが欲しいし、循環、自らの構造(とその限界を)意識していたあのときに郷愁の念にも似た気持ちを抱いている。 だからぼくは、小説を書くには小説を読むべきだ、と改めて自分に言い聞かせている。

オリジナリティとは何か、という話もあるんだけど、今夜はここまでにしておこう。