Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

天職とやらについて

小説を書くことは天職になりうると思う。今までも必要なことは書いてきたつもりだが、お金さえもらえるなら、必要性の感じないことも書くことができる。あえてセオリーを無視した書き方をしてきたが、条件次第では既成の構成に則るのも吝かではないし、流行りもののジャンルを研究して適応することだってできるだろう。自分のスタイル、性癖、ついついこうやっちゃうんだよなあという手癖は、そういう外部的な需要で打ち消すことができないと信じている。ぼくが何を書いたところで、織倉未然らしさは残るだろうし、それだけあれば、十分だ。どんなものだって書いてみせる。むしろ挑戦してみたさもある。極論、ぼくは文章を書くのが好きなだけなので、流行りに乗じたりすることに抵抗感がない。ただ魅力をあんまり感じていないだけだ。プレゼンされて、そこに魅力を見出すことができれば*1、アジャストできるのでは――とそう思っている。

天職とはどういうことか。それは上から降ってくるものである。周りの人々や市場のニーズが与えてくれるものだと考えている。多分この認識は間違っていて、仕事というのは自分から見つけていかなければならない。履歴書だって自ら作成し、それを志望する会社なり団体なりに送らなければならないのだ。小説を仕事にする、アルバイトにする、一旗上げるというのも同じだ。自ら動かないことには何もはじまらない。じゃあ、なんで投稿したりPRを張ったりしないのか。そこまでするモチベーションがない。そもそも完成しないからだ。完成しないものをネットに上げること自体のハードルは高くない。そういう手抜きはしている。けれども、投稿するなりPRするのは、完成させてからでないとという先入観が生きている。禁止されていないんだから合法なのにね。

小説を書くことは好きだ。けれども、いつも書けるわけではない。憎らしく思うこともある。必要なことは書いてきた、と述べたが、一方で、そんなに必要なことってない気がする。ある主人公がある行動をした時の心情、そしてそれが次の行動に結びつき、感情が変化する――そういう必要性ならある。ただしこれは、作者の人格が反映された結果だったり、登場人物の要請であって、「何が言いたい作品なのか」「どういう話なのか」「この作品の魅力は」というメタ的な(あるいは商業的視点から)発想ではない。「この動詞のあとには前置詞がくる」程度のお約束なのだ。ミクロ的な話、ということになる。マクロ側が仕事をしていない。「なんで小説を書くのか?」に対しては、「基本的には好きだから」「今まで続けてきたから」が答えとなる。自分でもあまり信じられていないことだ。心が乗っていない*2

このように考えるなら、「天職になりうる」というのがかなり狭い認識だということが明らかになるだろう。一生小説を書き続けていいなら、それは望外の喜びだ。専業作家が仕事になれば良いのに、と願ってやまない。そう、ただ願っているだけなのだ。そのための努力もしていなければ、何らかのアクションを起こしているわけでもない。たとえば、ぼくの作品には言葉選びのセンスがあるとの評価をいただいたものもある。同時に、展開が遅いと言われたこともある。読み返してみると確かにそうだ。自分でも「いつになったら物語が動くんだよ」と思ったりするので、後者については賛同している。どういう物語か、何が課題なのか、主人公は応援したくなるか? そういう要素、ぼくだってほしい。そういう要素が機能している物語なら、いくらでも目にしたことがある。だから書けないわけはないのだ。ただ、ぼくはあんまりやらない*3。これはどうしてなのか。

暫定的な回答としては、十分魅力を感じていないからだと思う。そういう展開、登場人物を見ると感動はする。しかしこの感動とやらの分析を行ったことがない。何が彼らを魅力的にしているのか? はたしてそれは自分の手元でも再現できるのだろうか……そういうことを考えて、実際に試してみたことがほとんどない。もちろん、作品の良さに感動の有無は必須ではないんだけど、何かを見て感動したっていう経験や「おれもそれを生み出してみせるぞ」というのは大きなモチベーションになりうると思う。で、これがない。それはそれ、これはこれで済ませてしまうのだ。常にではない。先週もあったし、先月もあった。ただし、メモは残していない。分析もしていなければ、実地試験もしていない。なんの記録も残っていないのなら、それは家出したも同時だ。なんだか自分がとてもつまらない人間に思えて仕方がない。

最初に戻ろう。小説を書くことは天職になりうると思う。小説だけを書いていて生きていけるなら、それにこしたことはない。生活ができて、資料集めができて、面白さが常に明白であればなおのこと良い。実際、宝くじで一等が当たったら、ぼくは迷わずそうする。余裕があれば、より良い小説を書くために大学やら大学院に進学する(独学ではなく専門的な環境で勉強がしたい)。現実的には、これは達成不可能である。一般受けはしないだろうが、書き続けること自体の他者に向けた効能やまだ見ぬ特定のひとには刺さるという願いならある。でもこれをして天職とするには、ニッチ産業もそうだが、どこか場所を構えなければならない。工房を建てるか、ブランドを宣伝していなければならないだろう。主戦場がインターネットなのだから、原理的にはどこでだってできるはずではあるのだが、いかんせんこの海は広すぎて、なかなか難しい。

まとめ

  • 専業作家になりたい

  • でも多分無理だと思う

  • それでも書き続けることになるので、今後ずーっとこういうことを考えるんだと思う

  • 現実的に働かざるを得ないので、天職にするのは諦めた方がいいと思う

  • こうして読み返してみると、一応日本語の文章にはなっているが、何を言いたいのか読み手にどうしてほしいのか、そもそも何が面白いのか、共感性は得られるのか、などなど、まるでわからないな。やっぱり向いてないかもしれん。

*1:ただし、最近では感受性がかなり鈍っているので、今まで好きだった要素を見出すことしかできない。流行のジャンルについても、どこに好感が持てるのか手探りだ。それでも、見出したなんらかを書き出して検討し、消化できれば別なのだが、それすらもしていない。昨日のことはすでにほとんど忘れている。「作家になれればなあ」と言う奴にとしては致命的だ

*2:これは結構致命的な問題だ。展開やら登場人物にすら愛がない。この子に幸せになってほしいというような正の印象がない。勝手に苦しめ、苦しいよねえという気持ちならある。彼ら彼女らはちゃんと危機や問題を解決して、安心して、幸せになった方がいいと思う。おそらく、書き手側が幸せであることを想像できなかったり、噂に聞く幸福とやらに懐疑的なんだな。現実離れして聞こえている。幸せのレパートリーが少ない。

*3:そりゃこのやり方をすれば面白くなるだろう、あくまで読みやすくはなるだろう、という展開についてはいくらか心当たりがある。この部分はもっと簡略すべきだなとか、登場人物に関する二、三行だけでファンが増やせるだろうなとかはある。あえてやらない理由はないはずなのに、なぜかそれをやらない。なんでだ