Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

天才性の誤信(小説を書く前に)

まず「わしは天才じゃ〜っ!」とする。そうすることで書けるのであれば問題はない。本当に天才かどうかは後ほど検討すればいいし、そもそもそれは自分の仕事でないかもしれない。なによりまず書くことが第一で、そのためにはどんな手段も使った方がいい。気分さえノって作品できるのであれば、どんどん自分を騙すべきだ。

「自分は天才なので、最高な文章なんていくらでも書ける。誰もわしを止められない!」とするには、実際に「最高の文章」が出力される必要がある。「最高の構成」でもいいかもしれない。そして、これらを感じ取れる感性が発揮されているか、その準備が済んでいなければならない。

なにをして「最高〜っ」とするのか。

この感性の参考になるのが、音楽的なセンスだ。「この曲最高〜っ」て感覚、その経験は誰しも持っているだろう。芸術という点では、映画でもアニメでも、絵画とか小説でも良いのだが、おそらく「わしは天才じゃ〜っ!」とは相性がそれほど良くない。

理性を捨てて感性のみで一行の快楽を追求するというのは、この瞬間に集中することでもあるから、物語とか背景知識を把握することと相反するのだ。とはいえ、頭の中から全体についての意識を完全に追い払ってしまうと、その一行も意味をなくしてしまう。ポイントは、作業を波に乗せるためにどこに集中すべきかという点にある。全体については、波に乗ってから考えてもいい。

メリットとしては、「わしは天才なので、休日の朝から小説を書くことだってできる」とか「わしは天才なので、眠気を無視して書くことができる」などと無理がきく点が挙げられる。この辺りは、各々の持っている天才像に基づく。ぼく個人の場合は、「天才はインプットも無限にできる」とかがあるので、インプットの時間を取ることに感じる引け目を軽減することもできる。「わしは超天才小説家なので、生活のメリハリもつけることができるし、運動もする」などといって、生活をコントロールすることもできる。

再三繰り返すが、本当に天才かどうかは問わないでよい。重点はそんなところにない。いま必要なのは一種の心理的操作だ。集中が必要で、ストレスが邪魔をするのであれば、これを解決する。自分の才能を誇大妄想的に定めることで、これらの障害が排除できるのであれば、どんどん信じていく。あとはデザインの目線も欠かせない。仮定した自身の才能を最大限に発揮するためには何が必要か。たぶん、十分な睡眠とか食生活とか、インプットの際に感性を発揮する練習を欠かさないとか、色々ある。自分の中の天才像に手を加えて、そのための心理的仕組みを整備していくこと。

ひとつの作品を感性を活かして仕上げようというのなら、まず大事なのは手を動かすことだ。言うまでもないが、熟考の上で作り上げたい場合はこの限りではない。とはいえ、感覚的には、作業の際には考える段階はあらかた済んでいるんじゃないかとも思う。

デメリットとしては、 「わしは天才じゃ〜っ!」と自分を騙すにも、目的が必要になってくる点だ。常に自らを天才だと確信できるような真性の天才であれば問題がないのだが、ここでは手段として自らを天才と信じ込んでいるに過ぎないので、限界がある。やる気を出すためのやる気、みたいのが求められるのだ。たとえば、締め切りが近かったり(外的要請)、書くこと自体が気持ちよかったり(内的要請)するなど。締め切りがリアルでなく、あるいは忘れてしまった場合はどうするか。内的要請によるしかない。快楽のために書く、ということになるが、人間は、強度の強い快楽よりも得やすい快楽を選びがちっていう性格を持つ。天才性を発揮するよりも、凡人としてささやかな快楽を得ている方が楽だ(例えば、YouTubeで推しの切り抜きを見るなど)。この克服が課題である。

あとは、「わしは天才じゃ〜っ!」も使い所を間違っては誤解を招くかもしれないという点だ。この方法だと「成果もないのに天才と信じ込んでいる」ってことになるので、これが気に食わない者もいるだろう。そして、何よりそういう者の存在に怯えてしまい、今度は逆に、自分の才能を過小評価してしまいかねない。何をして「過小」とするかといえば、「作業の進捗を妨げているか」だ。第一目標は作品の完成であり、そのために天才性の誤信が不可欠なのであれば、その誤信を揺るがす評価は「過小」である。

などと申しておりますが、今日は天才じゃないので、進捗ダメです。