Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

一日の中の振れ幅

朝と晩で考えているジャンルがまるで違うので、本当に同じ一日か疑ってしまう。

早朝: 語学(ベトナム語アラビア語): 今いる街に今後も住み続けるのか、より広い世界に出ていくのかで変わってくる。「もっと違う場所に行きたい、都会に行きたい」とは以前からずっと言い続けているので、新奇性はない。実行に移せていないのは、経済的事情と断捨離が進まないせいだ。特に後者が面倒だ。蔵書が身も心も拘束している。これがなければ、もっと機動力が発揮できるのに。とはいえ、これに関しては資産だとも思っているので、捨てがたい。やはり40ftくらいのコンテナを入手して、移動式書庫に改造するしかない(この現実味のないプランも昔からずっと温めている)。実家の荷物になっている蔵書も含めて、おれの人生をコンテナに入れて、その気になれば世界中どこにだって移転できる状態――というのは、昔から持ち続けている夢のひとつだ。

境界性パーソナリティ障害についての簡単な調べもの。今回は、マスターソン(J. F. Masterson)の「見捨てられ抑うつ」というフレーズが気になったことからはじまった。

見捨てられた/ている感覚というのは、たまにふと兆すものだ。他者の脈絡ない言葉、声の調子、態度などに、そういうものを幻視してしまうこともある。頭の中ではそうじゃないと分かってはいるのだが、この被害妄想気味な錯覚、ニュアンスの取り違えというのには、十分ひとを束縛する力がある。今現在の自分が抱えている問題や不安感が、そのままリフレクトして見えたり、聞こえたり、そこまでいかなくとも肌にビリリと来たりする。

ざっと調べた感じでは、そういう身体的な感覚のひとつとしての「見捨てられた/ている」感覚と、「抑うつ」という気分の問題を結びつけようというのではなさそう。マスターソンの「見捨てられ抑うつ」は、(母からのと限定してよいのか)自律に伴って起こる感覚のようだが、この想定している対象や自分自身にどう適応するか(咀嚼吸収するか)という点はまだ見定めることができていない。

どちらかというと、教科書の流れで出てきた「境界性パーソナリティ障害」の方が明確に面白い。「障害」とされるほど重度に困難を抱えているわけではなく(自覚がないだけかもしれない)、そういうひとが周りにいるわけでもないし、日常的に接する機会があるとすれば、「そういった傾向のあるひと」程度のものだ(スペクトラム的な話がしたかった)。

たとえば、自分自身などがそうである。一番声がデカくて喧しく、一緒にいて疲れることも多い。

しかし、何が起こっているのかを説明する語彙とか理論、モデルが足りないのだ。自分を諭し、自らを律するためにも、まずは学ばなければならない。幸運なことに、こと学習作業においては、落ち着いている自分と騒がしい自分は協働することができる。分裂的に書いているけれども、残念なことに、どちらも一つの身体を共有する自我である。どちらも自分で、排除することはできない。あくまでイメージとして、状態を象徴化して二極化することはできるにしても。

……安定を求めるなら、学習を続けた方がいいんだと思う。大局的なプランが先にあるわけじゃなくて、これはもっと「今ここ」に注目したアクションに近い。教科書を転写する、分からない単語を調べる、論文を印刷する――という主語抜きで機能しうる、責任から解放された動詞の実践。この主語動詞観については、以前に記したのでそっちを参照とのこと。 orikuramizen.hatenablog.com


パーソナリティ障害の中でも、一際興味深かったのが「受動攻撃性パーソナリティ障害(拒絶性パーソナリティ障害)」だった。やりたくないこと、いやなことに対して、わざとゆっくり実行したり、忘れたふりをしたり……というなんとも人間らしい反応だ。もっとも、これが「障害(disorder)」とまで言われているので、治療可能性を目指した反応だと思っている。現在DSMはVだったはずだけど、DSM-IVの時点で研究用に付録に移動している、という歴史も、今後が楽しみになる。

関心を引いたのは、この受動的な行動に「無視」「サボタージュ」「抑うつ状態」が含まれている点だ。大学や職場を休んでしまったあの日のことは、ひょっとしたらこういう反応に基づいていたのではないか。そのように考えるとき、当時は説明できなかった自分自身の活動に、新たな語彙がもたらされ、整理される。ある意味で掃除みたいなものだな。昔のことなんて忘れてしまえば良いんだけど、未だに足を引っ張っているから、正体を明かして野山に返さないといけないんだ。

今はさすがに落ち着いてきているけれど、今日もそれなりにメンタル面でハードな一日ではあった。ストレス・イベントがいくつかあって、それへの対処法が自分では分からないか、実践できない、「支援者としての目」(客観視の一種)も働かないときた。そういう日々が続いている。昨日一昨日はマトモだと思ったんだけどな……。この理由を考えてみると、「生活が安定していない」に尽きると思う。心を落ち着けようにも、安定供給されるリソースがほとんどないのだ。

明日はもう少しなんとかしていきたい。