Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

プロローグ作家としての自覚

プロローグ作家としての自覚

ここにまとまっているので、今更ブログ記事に興すようなことでもないんだけど、こういうことです。

 日常を描く必要性――そもそも「日常」ってなんだという話でもある。消極的な見方をすると、そこにスパイとミッションが出て来ず、障害はあるかもしれないが、それを見て見ぬふりをして過ごすことのできるものは、日常的かもしれない(りんごとは何か、と聞かれて、バラ科の、と答えるレベル)。  たとえば、イーサン・ハントの映画は日常ではない。核戦争を未然に防ぐ、というシナリオとそのドライブ感は、日常生活とはかけ離れたものだ。ヒーローが生まれ、活躍し、輝くとき――そのヒロインは我々人類であったり、地球だったりする。規模がでかい。  スーパーヒーローが愛しくて仕方なくなるときというのは、その異常なパワーと演出が、相対的に彼ら彼女らの人間性を強調するから、という部分がある。これはマイティ・ソーとかハルクにも言えることなんだけど、人間を超越した能力がありながらも、心の部分は僕らに近いのだと、そう思える点に魅力がある。思いっきり暴れたい――しかし現実にはそれができない――地球を守ることなんて尚更――そういうくすぶりが、彼らを通じて爆発する。地球だって人類だって救える。その瞬間、僕らはソーにもハルクにもなるわけで、彼らに神格的なものを感じつつ、その根底にあるものが、僕らにも流れているのではないか、何かに対して立ち向かうことができるのではないかと、そう思える点で映画は楽しい。一瞬でも、僕らはハルクでソーだった。

 さて、この意味でいうならば、日常系はこの対局にある。僕らの感情をハルクやソーが代わってくれるのに対して、あらゆる日常的危機が、核戦争の規模にまで押し上げられることもなく、僕らは日々のルーチンを消化し、そこからどうにか別の良き人生にシフトしようと思い、結局できなかったりして、敗北主義に囚われてしまったりする。そしてきっと、この感覚は、この私だけでなく、他の誰もが共有していることだろう、と思ったりする。  大きな敵がいないかわりに、ヒーローもいない。それがこの人生だったりする。ちょっと物足りないが、いや物足りないなんてレベルじゃなくて、生活が全然豊かにならないんだから……この話やめよう。

 日常系の肝は、交換可能性にあると思う。少なくとも、最初は。たとえば僕らの後輩は、はじめ後輩として現れた。それが日常の中で、どうしても交換し難い存在になるんだけど、ここに日常の面白さがある。つまり、新しやってきた存在、という要素があって、そこに中野梓という名前が与えられ、交換不可能な存在にまで、満たされていくわけだ。  中野梓という少女からすると、その名前はあらかじめ自分に与えられたもので、それだけで交換不可能なものなんだけど、それが先輩たちとの交流を経て、ちょっとずつ意味が変わってくることになる。がまあ、これもまた項を改めた方がいいな。脱線する。

 日常を書きたい、と自分に言うとき、そこに求めるのは敗北主義ではない。ヒーロー不在の世界観、というのを前面に押し出したいわけでもない。生きるとは何か、というのを問い続けている部分が大きい。  事実僕自身ヒーローを身近で観測したい、創造したいという気持ちもあるので、隙あらば登場人物にヒーローさせたい気持ちはある。スーパーパワーで、人々を救う――これは定義として正しいかもしれないが、けれども僕の求める姿じゃないな。第一、このヒーローの存在と、日常というのは並存できないわけじゃない。

 日常とは何か、それは生活か、というと、語が分かれているだけあって、微妙な違いがここにはあると思う。定時で帰れる日常と、終電まで残っていても帰れない日常では、生活の意味は変容してしまう。どちらがよりリアルか、というのは、これはもう観測者のおかれた毎日がどっち寄りかによってくるので、あまり意味はなさない。誰しも自分の生活スタイルがあり、人の数だけ日常がある。

スマイリィ・ウィッチ、トナ村先輩(織倉未然) - カクヨム kakuyomu.jp

これは現代をベースにしている。魔法使いの女の子が出てきて、主人公は彼女の弟子になる。魔法使いが登場する以上、それは多くのひとにとって日常的な事態ではなくなる。ファンタジー? でもそこで、日常的な要素を盛り込んでいくことで、彼らの日常を描けるのではないかと画策している。面白い話にはなると思うんだ。日常を取り戻したい――という願いが機能する時点で、それは果たして日常なのかと思いもするけど――という魔法使いの女の子と、非日常的なものを求めて彼女に弟子入りする少年、という構成は楽しみだ。書きなさいよ。はい。

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これはタピオカミルクティーを初めて飲んだことから着想したプロローグ。彼女のできた親友から、タピオカミルクティーを飲みに行ったと聞かされた男子高校生の話。タピオカミルクティーを闇討ちする、とかいう時点でファンタジーだが、一番書きたかったのはそこじゃない。「だって、そんなにぶっ飛んだものでもなかったんだろ? 流れる時間と一緒じゃないか。だったら、そこにいるのは僕だろう。」という感覚が書きたかった。交換可能性という事態に直面した男子の危機の声としては、これすごくいいと思う。書きなさいよ続き、はい。

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これはもうほとんどファンタジー。ボロニア大学神学科の女子大生グルッテン・ベルバロンズが、手錠を拾ったことから話は始まる。隣の家に住む薬売りの一人娘、ペリエ・トラウノスに一目惚れした彼女が、来るべき魔女裁判から彼女を守るため学問に精を出そうと心に誓う話。全然違う世界観で話を書きたくなったんだと思う。このあとは、教会に認められるべく、弩級の魔物を倒して、商用路の確保に至るまでの話をかけられれば完成する。異世界冒険ものについて知見がないけど、これなら自分の手がまだ届きそうだ。

とここまで羅列したところで、本当に書きたいものは別にあるのだ。イナリィズとかグリランとか。いや順位はそれほどでもないな。全部結局はやる。

「日常とは昨日の続きでもあるものの、想起するこの瞬間にこそ現出するもの」というテーマは、ちょっともう少し追いかけたい。でもこれは多分、フッサールが晩年の作品で、生活世界Lebensweltに話を持っていった部分を考えようとしているからなんだと思う。いつだってそう。小説を書きながら、別のことを考えている。小説を書いていくうちに、自分の頭の中がつながっていく感覚がある。

タピオカミルクティー、という事件はちょっと大きなものだった。あれ僕の飲んだものは極端に美味しいものでもなかったんですよ。こういうものもあるんだ、ふーん、くらいのもの。でもきっとあれを、他の誰かとわざわざ飲みにいったり、その後であーだこーだと話たりすると、すごく思い出に残るものになったと思うんですよ。何年か後に、タピオカミルクティーというワードを聞いて、そこで初めて思い出すような、忘却に紛れる挿話かもしれないけど、それでもそういう日があったことは否定されるものではなくて、細胞が入れ替わっても残り続ける何かとして、残り続けるような気がする。

そういうものの総体を、強気に「生」と言いたいし、今現在からでも自信を持って言えるのは、それが日常なんだと思う。今週の織倉未然は、日常を探して小説を書いていましたね。誰かと過ごす日常というのは、今ではすっかり失われてしまっている、この人生において、そもそもその試みこそがファンタジーを構築することそのものでもあり、だからトナ村先輩が魔法使いだったり、角船が来航したり、ボロニア大学の女子大生が薬売りの娘に恋したりすることも、それは日常を取り戻す僕の試みの成果とも言えるのでした。