Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

ブログの身体性

今日考えていたことを総括すると、コンテンツマーケティングなどのターゲットと、支援が必要な対象としてのクライアントは重ねることはできないかということだ。構造的には難しい話ではない。

友人にアニメを勧めるときのことを考える。たとえば、彼は今フラれたばかりだとする。おまけに遅くまで仕事があるので、身も心もクタクタだ。頭は回らないし、かといってすぐに寝つけるわけでもない。帰宅して、風呂に入り、飯を食べ――そういう毎日に飽きている。人生ってこんなに味がしなかったっけ……と寂しくなり、なんのために生きているんだとも自問しはじめる。これじゃいけないと抗う気持ちはあるのだが、具体的に何をしようとは思い浮かばない。そんな彼に、どんな作品を勧められるか? 鈍った頭に染み渡る系統のものがよい。しかし世界を背負うような危機感はいらない。「次回に続く!」もごめんだ。ただじんわりと温めてほしいのだ。

ここまで考えると、処方すべき作品というのはいくつか思い浮かんでくる。これが多分、ターゲッティングの基礎なんだと思う。

このターゲッティングは、短い線分だ。

ぼくは、これを組み合わせたネットワークの話がしたい。

ターゲットとして設定する際に、次点でモデルにしやすいのは自分自身だろう。「疲れている友人」とは異なって、逃げ出さないという点にメリットがある。また、「疲れている友人」は、彼のある一面を表しているが、おそらくその本質ではない。「疲れている」というのは個性としてカウントされないだろう(「おれは生まれてこの方、ずっと疲れているんだ」というのは、日本語として少しおかしい)。「疲れている友人」は、一状態にすぎないので、アプローチも限られてしまうが、自分自身をモデルにすれば、この限りではない。需要は継続的に供給される。「今何が知りたいか」「今何がほしいのか」で書くことは、この点できっと楽しい。

一つの紹介記事について、ある特定の読者を想定することは、もちろん可能だ。けれども、できればもう少し時間について幅を持たせたいという気持ちもある。対処療法的にあるのではなくて、寄り添える言説を作ること(矢ではなく、杖を作ることの例)。線分ではなく、ネットワークをというのもここにかかってくる。線分では突き刺さってしまうので、編んで網にする必要があるのだ。

いろんなことを調べて、メモを作り、相互参照して世界観を練っていく――こういうことに、「今ここ」に集中する以上の意味があったりするんじゃないかと考えている。資本主義の性質を考えれば、資本主義によって得た傷は資本主義によって治るのでは? とか。取り急ぎ記すなら、「言葉が通じないことでできた無能感は、理解されることで癒されるのでは」みたいな路線なんだよな。了解の不在と排除が原因なら、少なくとも排除はされず、了解はされるかもしれない(されないかもしれない(どちらでもいい(中立)))場に置かれるのは悪いことではない。ポイントとしては、「自分の言説を開けた場所においておくこと」が鍵なんだと思う。SNSを利用するにあたって、Social性を積極的に求めないのであれば、その他大勢の雑踏の中に紛れることができる(本当か?)

「お客様は神様だ」という時の客はcustomerなんだけど、ここではclientの話をしている。留意したいのは、この「クライアント」という時のバランス感覚についてだ。サービスを提供していただく者とか、支援していただく者などという風に、自分を下げる必要はないだろう。逆もまた然りで、サービスを利用してやっている者というような、上に置くこともしないでいい。フェアでフラットな位置関係というのを想像すること、これが雑踏感覚には欠かせない。

もうひとつ進めて、ターゲッティングとかは高度な情報操作なんだけど(絞り込み検索)、現実的にはそんな都合の良い相手が見つかるだろうか、というのも考える。目的の対象に巡り合うまでに、紆余曲折あるのが適当ではないか。この経路問題、人混みの交わし方、みたいなニュアンスをどうにかしてターゲッティングの話にねじ込めないだろうか。表現したいのは、この動的な在り方なんだよな。今のところ、それは文章的表現というよりも、「文章を書くこと」を通じて出力されている、もっと身体的な、演劇的な方向のような気がする。アルトーか...