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ブログをメモ帳と勘違いしている

反省文 : アニメの発音にどう突っ込むか

とあるアニメを完走した。登場人物に、フランス人とのハーフという設定の少女がいて、その子はたまにフランス語で話す。アニメでフランス語を聞くのが新鮮なこともあり、それはとても嬉しかった。しかも字幕までつく! 作品自体も素晴らしいので、この作品から、フランス語をやろうと思うひとが増えてくれればいいのに。

この「外国語 + 字幕」という例がどんどん増えていってくれ。外国語、もっと極端に流行れ。

それは日本人の話すフランス語だったのかもしれない

当の登場人物は、フランス語を話すわけだけど、僕の認識している発音、抑揚と少し違っていて、そこに違和感を覚えた。これは、他の外国語が使われるとき(たとえば、詠唱時のドイツ語とか)にも感じるものなんだけど、どうにも、その言語っぽくない発音だったりする。だからって悪いわけではない、ということを今回は書きたい。

あなたの「発音に対する厳しさ」はどこから?

フランス語の発音をしっかりしたい、という意識はどこから来るか。自分自身のこれを考えると、以下のようなものが浮かぶ。

  • 現地でのストレスを緩和したい(自己防衛)
  • ちゃんとした発音ができたら誇らしい(自己満足)
  • その言語の発音自体が口に楽しいので
  • 何度も注意されたから
  • なんとなく正しくないとダメだと思っているので

リストの上から3つまでは、ちゃんと主観的なアイディアで、これは自分に求める分にはなんの問題もない。
「現地でのストレスを〜」には、幾分外的な要因も含まれているけど、これも、あくまで「自分と現地」という関係だから、重点は自分自身の方にある。
旅行者、外国人と思われることで、得られるベネフィットももちろんあるが、それを理由になかなか溶け込めなかったりすると、長期滞在時には堪える。疲弊することにもなる。いくら英語が国際言語として強いっていっても、現地語の方が通用する相手は多い。スーパーとか。

「あなたの国の文化に対する敬意を持ってますよ」って態度を発信したいという気持ちもある。だから教えてくれ、もっと高みに上りたいんだ、みたいな、よく言えば求道者で、もっと正しくは趣味の話になる。

ちなみに、「その国の言葉を話せなくてもなんとかなる」というのと、じゃあ学ばなくても良いかっていうのは、全然話が違う。後者は前者をなんら正当化しないし、どちらかと言うと*、その国の言葉が話せない場合は、言語以外でなんとかするしかないという限界な感じがある。

問題は、リストの下の方。これ、多分、今までの学習経験から来ている。それは義務教育だったり、受験勉強だったり、語学学校だったりする。語学学校の場合は「その発音だと君の思っていることとは違うんじゃないのかな」みたいな理由があったと思うので、飲み込めているけど、義務教育の方は……。

英語を喋れないのか、喋らないのか、喋れなくなったのか

義務教育で六年間英語をやってきたのに喋れないのはおかしい、みたいな話があって、そもそも義務教育は中学まででは……? あ今なら小学校から英語もやるんだっけ、と思う程度には、あの話を全然真剣に見ていなかったのだが、まあそれだけ長い時間、英語を学ぶ機会があった、というのは今にしてみれば、かなり羨ましい。六年間も外国語の勉強してもいいのか! あー受験あるからなー仕方ないなーとかニヤニヤできる。今はダメですね、

記憶を辿ると、真面目に発音することには恥ずかしさもあったし、周りはみんなしていないし、そもそも喋る機会もないし、と色々環境が整備されていなかった。
僕自身は、結局のところ、無関心なタイプだったので、中学時代から大学時代に至るまで、英語っぽい発音を心がけることができた。当時の自分には珍しいことに、この発音体験に限っては「かっこよく見られたい」って動機がほとんどなかった。ただ、そう喋ろうとすることで、英語が頭の方からするすると出てくるようになるって思っていた。

実際、六年間もあったら、ある言語は結構話せるようになると思うんですよ。他の科目の勉強もしなきゃだし、青春はそれでなくても消費されちゃうので、集中する暇はなかったと思いますが。そう、ここが問題の核にあると思う。

英語なんて話せない、という人と結構会う機会があって、逆に僕自身は喋れるのかというと、対外的には「喋れます」と言ってはいるが、実態としては「喋らざるを得ない」方が正しい。これは上で述べた、限界なやり方に近い。
. そういう在り方から見ると、これは良くない態度なんだけど、「英語なんて話せない」という人は本当に話せないのか、話さないだけじゃないのか、と思うこともある。でも、話す、ということは、前提として相手の言っていることを大まかにでも理解する、という前提に成り立つアクションなので、この意味で「話せない」ひと達は実在する。

僕の場合は幸運なことに、英語で話す経験があったし、話さざるを得ないような環境も作ることができたので、そこから距離の空いた今でも、「話せます」と言うことができている(この「話せます」で自分の首を締めて「話さざるを得ない」環境を作ることを意識的にやっている。まだだ……まだ足りない……)。

これは良いも悪いもない話なんですけど、実際、日本で英語を話さざるを得ない状況なんて、そうそうないんじゃないのか、と思っている。たとえば学校の授業で、カタカナ英語で英語を話しても、問題なんてなかったと思うし、逆に「っぽい」話し方してクスクス笑われたりしても嫌だし。そういう状態を継続していった結果、喋れるようになってもよかったはずが、喋れなくなってしまった、とするなら、それは適応の結果だし、当然にも思える。

外国語を教えるとして、どう教えていくか

こうして完成した「喋れない」状況に対して、「発音が違う」と言うのはとても難しい。一見突っ込みやすいんだけど、そもそも正しい発音とは? というものがあるし、それがあったとして(この授業ではクイーンズを基準とします、のような)、その発音が空気的に許されたのか、実際使う機会がなかったのに、今になって言われてもって感じ。そんなんだから萎縮しちゃうんだよ、と言われたら終わりだ。

外国語を誰かに教えるとしたら、まず発音から直すのは、いきなりのハードルが高くないかと思う。まず、苦手意識をとことん取っ払って、どれだけ単純でも良いから、とにかく応答できるようにする。それから、「もっと良い言い方がある」だの「その発音だと、相手に誤解されるかも」と修正していく、というのがちょっと近い方法だけど、多分もっと良いのは遠回りでもその言語独特のノリをつかませることだと思う。これには発音とか抑揚とか、決まった言い回し、思考の型など色々ある。これが基本的で、一番習得が難しくて、でも一番楽しいところだと思うんだよな。

結び

今回見たアニメについて、僕はフランス語が採用されたことに喜びを感じ、同時に発音とかにも違和感を覚えた。でも、自分に対して発音をとやかく言うとしても、他のひとに言うのはどうなんだろう、と思って、今回の反省文を書いている。
フランス語をはじめとする外国語は、アニメの中でもどんどん採用されていってほしいし、極端な話、全部フランス語の日本発アニメがどんどん出てきてほしい。アニメは好きだし、それでフランス語が学べるなら僕は嬉しい。これは多分ないことなんだけど、外国語で喋るキャラの揺籃期を「発音が」「抑揚が」で潰すような流れに、加担したくはない。

フランス語。もちろん方言がある。その1つも精密に把握できていないのでなんだが、標準語と違うからって否定するのも間違っているとは思う。フランス語の日本方言なるものが確立しているのか知らないけど、あってもいいだろうし、辞書一つを引いて「発音が違う」も罠だ。

ここで、「標準語で(…方言で)喋る」という属性を付与するなら、そこに深みが出ることはあっても、付与されていないなら、そこまでの解像度は求められていないのだろう。求められていない解像度を「欠如している」と言ったとして、それは作品の瑕疵には結びつかない。

そもそも知らない体験を求めて新しい作品を見ているわけだし、そこに自分の知っているものがなかったとして、それは欠如ではないでしょって話になる。得られたものを数える方が早いし、確実だ。この作品、その点でいくと、結構楽しかったんだよな。同じ段落でちょっとひっくり返すと「13話じゃ足りなくね?」ってなりましたね。完結しているんですけど。ゲームもやるか。