Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

ものをつくる仕事につきたい(たとえば外国語を使うことの話)

クリエイティブなことを生業にしたい。

何か作品を製作し、それを提出することができれば、それは間違いなくクリエイティブだ。

そういうことをして対価を得て、生存以上の賃金を手にすることができ、生活が成り立つならば、それは僕に「クリエイティブな仕事をしている」と言わせしめるだろう。

さらに言えば、日々、何らかの作品を提出し続けていくことのできる環境が整っていれば、申し分ない。無論、ここには生活費も教材代も含まれる。というよりも、本来それらは同一だ。バランスの良い食事と、適度な運動、そして知的好奇心をくすぐるものが、僕のような人間には欠かせないのだ。このうちのどれかが――そしてそれは多くの場合、最後に上げたものが最初に削られるのだが――欠けてしまえば、それはもう僕のような人間の要件を満たさなくなってしまう。

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承認と需要のベクトルが僕に向いていればなおよろしい。僕を指名して欲しい。一方的ではなく、僕が名乗りを上げ、それを拍手をもって迎えていただきたい。そう思うこともある。

「お前の代わりはいくらでもいる」という言葉自体が辛いのではなく、そのことに説得力を認めてしまうこと、自分の中でその職場に忠誠心を醸成できないこと、これが辛い。

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クリエイティブなこと。それは自分の持っているスキルを、あるいは持ちつつあるスキルを、できれば将来獲得できるだろうスキルを使って何かを製作することだと、僕は思う。

この点で言えば、英語で話したり、英語で書いたりすることは十分クリエイティブだ。製作したものは多くの場合、目に見える形として残らないけれども、その刹那瞬間に、僕は英語からなるコミュニケーションの空間を創造する。外国語で文章を書くことが楽しいのはーーといって実際にはそれほど作品を閃かせたこともないのだが――こういう理由からだ。

言語には固有の響き方とか文法とかがある。これをして、僕はその言語の色彩と呼ぶ。 使われる色も違えば、筆致も異なる。そういう世界を次から次へと創造すること。そのことが、外国語で話すことの喜びでもある。

この点で言えば、普段のテキストとの対話や映画や音楽を観ることは、素描に近い研究を自身の中で行うことであり、単に楽しいというよりも、もっと自然なリラックスした感情で、要するに僕という人間の性癖なのだと言うこともできる。

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英語が話せるなんてすごいね、書けるなんてすごいね、と言われることも時にはある。しかし、そのことを誇ることはあまりない。それはどちらかと言うと、海の中と陸の上で呼吸の仕方が変わるようなものだ。火星に住む蜘蛛も、金星のクジラだって、それぞれ異なる呼吸の仕方をごく辺り前に行なっているように、僕にとっても、今の僕のレベルで話し、書けるところを自然にやっている節がある。