Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

グラブルに見るローカライズ大変だなぁって話

いやぁローカライズって大変ですね。

グラブルに登場するキャラクターで、ミリンという名前の子がいる。調べてみてくれ、かわいいから。異国を学ぶために旅に出た、金髪碧眼サムライガール。鳳回転流抜刀術という剣術の使い手。かわいい。とにかくかわいいのでとにかく起用してしまう。風属性SRとして初登場したんだけど、立ち絵のカラーリングが絶妙。声はハッカドール1号に似ている。かわいい。

この子の「鳳回転流」、英語版では「Revolving Phoenix」。revolveはリボルバーのrevolve。回転、spinning とかturningとかcircleがくると思っていたから、ちょっとこれは衝撃的だった。

revolving、revolving creditとかrevolving loanとかがヒットするので、これは金融用語だろうし、語として適当なのか疑問に思ったんだけど、くら寿司が”KURA REVOLVING SUSHI BAR”なんですね。ミリンちゃんの”revolving”、ひょっとしてこの感覚か? Google翻訳さんは”Conveyor belt Sushi”を提案してくるけど、”revolving”の方が確かに可愛げあるもんね。

OEDによると、”revolve”は、

Move in a circle on a central axis. revolve | Definition of revolve in English by Lexico Dictionaries

中心にあってぐるっと円を描く。re + volvere。確かに彼女の剣術はそういう感じ。なるほどね。燕返しなら、Swallow Flight Reversal (マジか?)。

日本語で書かれている技をどう英語にするかって時に、これもう日本語で書いちゃえばいいじゃんって思ってたけど、そうもいかないらしい。我々はノーブル・エクスキューションって奥義をノーブル・エクスキューションとして聞き慣わしてきているのだから、英語でプレイする異国の同胞諸君も鳳回転流抜刀術・十文字スラッシュを「Ohtori Kaiten-ryu Battou-jyutsu Juumonji Slash」と認識しろって言いたい部分もある。

でもこれ、不親切っちゃあ不親切か(でもそんなこと言うなら、英語版の用語集だって日本語のあいうえお順のまま英語訳記事載せちゃってる部分不親切じゃない?)。一方、キャラクター名や技名が、その言語的にはマズイっすよって理由で原型とどめてないほど変わる分には、コードなら仕方ないなって理解できるんだけど、日本語の技名が意訳されるのは、これもう日本語の知名度が低いから仕方ないのかって思う一方、でもこういうゲームから外国語を学んでいく部分ない? もっと日本語売り出してこうぜって思う部分もあるんですよね。無茶があるか……(諦め)

雪月風花はなんなのか

ミリンちゃんには別衣装バージョンもあって、これは去年の冬に追加された光SR。全体的に暖色で、あったかそう。風SRのときの緑と白、そこに赤の差し色が映えていたのに対して、光SRのこちらは落ち着いた印象を与えてくれる。

さてこのバージョンの奥義は「雪月風花」英語で訳して「Nature’s Beauty」……まあそうなんだけど……。これは本当に訳すのが難しいと思う。

四季の季節ごとの美しい自然の風景。 または、それらの風景を鑑賞して、詩歌を作ったりする風流な生活のこと。 冬の雪、秋の月、夏の風、春の花ということから。 「雪月風花」(せつげつふうか)の意味

果たしてどこまで「Beauty」の感覚に乗せることができるんだろう、ってのが疑問。「春はあけぼの」の「もののあはれ」と西洋の「美」の感性ってどこまで通底するのか。BeautyはAestheticsに進むと精神的な美学が強調されることで、同じ卓上に並びそうな気もするんだけど、この線もまた困難だ。

ひとつの方法として、「風流な」ってところなんだけど、これ調べると”elegant”って出てきてしまう。でもelegantは社会の中にある個のふるまいへの評価で、その前提には観測者的主体からの自己投入型の形式がみられるのに対して、「風流な」は読んで字のごとく、客体が自然の中に揺蕩っている様、それが可能な境地みたいな部分にあると思う。都市と自然の間にある認識的隔たりが強固だった時代があり、主客(という言い方も本来マズいんだけど)混在とした、我が没して客に遊ぶ中の「もののあはれ」な世界から詠む「雪月風花」と、都市の窓から見る季節に「beauty」を感じるのはちょっと離れてないか、大丈夫かな……ってなる。そもそもこの「もののあはれ」は、ひとと自然との間に生じた、どちらに属するとも知れない中間的な(そしてひとと自然をまるっと一体化する全対的な)事態な気がするし、一方のbeautyは自然の一要素と人間の主観に渡された橋のような、線的な現象な気がする。橋は両端がしっかりしてないと落ちる。

じゃあアフローディテとかどうなるんだよ、人間の姿してんぞ、という話にもなる。芸術だって美を求めて描いてんだぞ、作ってんだぞという話にもなる。テーマには限りがないから、紙面が足りない。でも「もののあはれ」には本来コネクション性みたいのはない気がするんだよな。これ、自然に没入するとか成るって感覚・事態と、美が在るって状況の違いが根底にあると思う。

じゃあ君は雪月風花をどう訳す? って考えるといやぁローカライズって大変ですね。