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ブログをメモ帳と勘違いしている

TOEICスコアに何を見るか

今日はTwitterのタイムラインで、TOEICスコアに関する話題を2回見かけたので、あやかろうと思う。

ひと昔前こそTOEICは、読解とリスニングという2つの要素からなっていたが、今では、そこに筆記とスピーキングも組み合わせることができるようになっている。実際に受験するかどうかは別として、この四種目でちゃんとスコアを取れば、読んだり聞いたりすること(パッシブ)だけでなく、書くことも話すこと(アクティブ)もできるという証明にもなる。もちろん、点数による。

ここで確認しておくと、上の四種目で高得点が取れたからといっても、人と話すのが苦手だったり、相手の文化慣例が自分のものと著しくかけ離れていたりすると、活用できないということは起こりうる。逆に、とにかくノリと勢いでいける、やるしかないと腹を括ってしまいがち、という場合は、点数が低くてもどうにかなることもある。

さらにいえば、TOEICはビジネスシーンという(大雑把ではあるが)限定された領域をテーマにしているので、上の四種目もそれに特化された仕様になりがちだ。もっと広範な語彙を獲得したい場合は、TOEFLなど良かったと思う。
一方で、この限定的な領域というのが、有利に作用する場合もある。語彙や用語がそれほどバラエティに富んでいないなら、文法や文章構造に集中することができる。結論からいうと、ある種の瞬発力を鍛えることができる。そもそも、TOEICの問題数自体がかなり多いので、正確な回答のためには検討する必要はあるが、迷っている暇はない。最終的には、反射的に正しい語彙・文法・文構造を判断する能力が身につくことになる。例として、中学時代に学んだ「How are you?」「I’m fine. Thank you.」という応答を今でも覚えているひとも多いと思うが、そういった型がたくさん蓄積されていくことになる。これは、後々英語を使う際の基盤になりうる。

TOEICスコアは、少なくとも能力を客観的に見る一つの指標にはなるので、前回、前々回より高くなっているスコアを見て、自信を持つことには正当性があるし、それがきっかけで、コミュニケーションを取りに行けるというのも自然な発想だ。加えて、上に挙げた瞬発力もここに一役買うことになる。

さて、ここからはTOEICスコアに何を見るか、という話をする。書き終わってから見直してみると、愚痴でした。

上では、TOEICスコアが高いからといって、英語ができるとは限らないが、少なくともその下地はあるという話をした。またTOEICスコアを持っていない、あるいは低い点数だとしても、コミュニケーションが不得意とも限らないということも述べた。では、他人のTOEICスコアを評価しなければならないシチュエーションに出会した場合、何を見るべきか(あるいは一被評価者として(つまりぼく個人として)、何を見てほしいか)を考えると、やっぱりそれにどういう価値を見出して、どういう取り組み方をしてきたか、というよくある奴になる。

ぼくの場合は、TOEICスコアについては、「他者からの高評価」「自己肯定感」といった動機づけがあり、また「試験当日にできるだけスムーズに回答したい」という欲求もあった。単に上達するのが楽しかった、とまとめることもできる。ちなみに、コミュニケーションに関しては、腹を括りがちなタイプだったので、TOEICスコアを取ることでコミュニケーションが改善したかというと微妙だ。

ここで、上のような述懐を元に、「どういう価値を見出して〜」という部分に焦点を当てたストーリーを作るなら、こうなる――「来るべき実戦に備えて、日々机に向かって訓練することが可能です」。
ただ問題があるとすれば、「耐え難きを耐え」ではない、ということだろう。齟齬が生じやすいポイントがあるとすれば、おそらくここだ。

ぼくにとっては、TOEICの学習には、ちゃんと日々発見があった。反射神経が向上したり、(限定された領域であっても)英語に対して解像度が上がっていく手続きというのは楽しかった。より正直に言うなら、「楽しいことを続けることができます」ということなんだけど、これは説得力に乏しいとも思う。仕事というのは楽しくないものとされるらしいからだ。同様に、「褒めてくれるなら、新しい分野も一から学べますし、成果も出せると思います」というのもあるのだが(傍証として、仏検独検も取った(好きだったし))、これもやはり感じが悪いだろう。「仕事を舐めるな、甘えるな、成果を出すのは当然だ、苦しめ」。

自分の心を守るために考えてみると、「嫌で嫌で仕方がない英語の勉強を死に物狂いで続けました」って、そんな聖人みたいな美談、実現可能か? とも思うんだけどな……できるのかな……楽しくないと続かないだろうし、続けてしまったことを「楽しかったです」と脚色しかねないというのが人情ではありませんこと? とも思う。 あるいは、自分にとっては嫌で嫌で仕方がないことも、こいつにとっては楽で得意なんだな、となるとそこを評価してくれ、とも……期待しちゃうんだけど……ダメみたいですね。

ちなみに、よく「英語だけできてもダメ」と偉そうにマナー講師的な方が仰いますが、ダメ平面と語学平面は交わりこそすれ、重ならないので、単に英語ができるとその分見える世界広がるので、オススメです。なんならWikipediaの「赤文字[英語版]」の記事も読めます。「英語だけできてもダメ」なのが正しくなるのは、多分「フランス語もできなきゃダメ」とかの話でしょう(違う)。そう、日本語と英語だけでは足りないのです。いくらあっても足りない。無限に語学を修めるのが吉、と出ています。